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梶井基次郎

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森見登美彦(もりみとみひこ)、万城目学(まきめまなぶ)という「京都・京大作家」を紹介してきた。今回は彼らの大先輩とも言うべき梶井基次郎(かじいもとじろう)を紹介しよう。

梶井基次郎は1901年(明治34年)に大阪市西区土佐堀で生まれた。1913年(大正2年)に三重県立第4中学校に入学するが、翌年旧制北野中学校(現大阪府立北野高等学校)に転入し、1919年(大正8年)に卒業、同年第三高等学校(現京都大学1,2回生相当)理科甲類に入学する。このころから肺結核に冒されて、すさんだ生活を送り、5年かけて高校を卒業し、1924年(大正13年)東京帝国大学文学部英文科に進学する。1925年に同人誌「青空」を創刊し、「檸檬(れもん)」を発表する。病状が悪化したので卒業を断念して、川端康成を頼り、伊豆の湯ヶ島温泉で療養生活に入る。1932年( 昭和7年)3月24日、肺結核のため大阪、天下茶屋で亡くなる。享年31歳。

筆者は北野高校、京都大学の卒業生なので、梶井はその意味でも二重の先輩に当たる。梶井が晩年に住んでいた伊丹市には筆者も14年間住んでいたので、その意味でも非常に親近感の持てる作家なのである。

先に紹介した万城目学の「ホルモー六景」の「第三景・もっちゃん」は梶井がモデルである。電車通学していた梶井は車内で出会った同志社女学校の生徒に惚れ込む。何とか思いを伝えようとして、ついに彼は、英詩集にある恋の詩の一ページを引き破って彼女に渡した。翌日、彼女に「読んで下さいましたか」と聞くと、相手は迷惑そうに「知りません」と答えて、これで梶井の恋ははかなくも潰えたのである。英語の詩を渡したものだから。

梶井と筆者の住む団地の関係と言えば、ある作品の中にこういう一節がある。主人公が荒神橋のそばから比叡山の方を眺めると、工場の煙突が見えた、とある。この工場こそ、高野団地が出来る前に、当地に立っていた鐘紡の工場なのである。

梶井基次郎といえば「檸檬」がもっとも有名で教科書にも取り上げられている。大学の講義にほとんど出席しないで、酒と借金というすさんだ生活を送っていた主人公が、ある日、散歩に出かける。寺町二条角にある八百屋(八百卯)でレモンを買う。そこから南に下がって丸善に行く(丸善の昔の店は河原町ではなく寺町通りにあった。)。画集を取り出してみるが、どういう訳か気乗りがしない。次々と画集を取り出しては積み上げて城のようにした。主人公はその上にレモンをおいて店を出たのだ。『変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も木っ端みじんだろう」そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。』2005年に丸善が閉店になったとき、フロアのあちこちから客がおいていったレモンが見つかったという。

   
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