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京都秘密名所巡り 13・・・九十四露(ことしろ)神社探検記

詳細

経緯

「京都秘密名所めぐり2・・・東山の秘密行場、神社」において、私は東山山中に潜む「語白(ことしろ)神社」という、謎の秘密神社を紹介した。

また私がこのホームページで連載しているウェブ小説「悪の秘密結社『猫の爪』による世界征服計画」の第1回で、この語白神社を登場させた。主人公が東山山中を彷徨している時に、語白神社にやってきた。そこで主人公は事代主命 ( ことしろぬしのみこと ) と出会う。事代主命とは大国主命(おおくにぬしのみこと)の子供で、古事記に出てくる神である。小説では事代主命は実は宇宙人の化身で、主人公に世界征服を提案するという話である。

この小説を読んだ読者から、あいんしゅたいんにメールがあった。小説の記述を頼りに語白神社を探したが、見つけることはできなかったという。実は語白神社への道筋の記述があいまいであったのだ。

語白神社は哲学の小道の東側にある霊鑑寺のさらに東側の東山山中にある。霊鑑寺の南側の道の角に、この先、俊寬山荘跡へという石碑がある。その道を東に向かって上っていく、このあたりを鹿ヶ谷(ししがたに)という。俊寬は平安末期の僧侶で、当時、権力を握っていた平家に対するクーデターの密議を、鹿ヶ谷の山荘で行った。ところが裏切りにあい、その陰謀が平家に通報されて、俊寬たちは捕らえられた。そして九州の南の絶海の孤島である鬼界島に流された、と平家物語に書いてある。この話は、能、歌舞伎、小説にも取り上げられている。

私は25年ほど前に友人と俊寬山荘跡を探した。結果的には、道を間違え俊寬山荘跡は見つからず、東山山中に小さな神社を発見した。その神社には当時は、まだ人手が入っていたようだが、ひと気はなかった。記憶では「ことしろ神社」という名前であったと覚えている。ネットで調べると、語白神社という名の神社が、西日本にはいくつかある。それは事代主命をまつる神社であるとされている。

25年たってどうなってるだろうかと気になり、あいんしゅたいんの会員の廣田さんという若い女性に探索を依頼した。彼女は友人と第一回の探検を行い、俊寬山荘跡の石碑を発見したが、語白神社を発見することはできなかった。

鹿ヶ谷の道の一番奥で道が二股に分かれており、左(北)の道を取ると俊寬山荘跡、右の道を取ると語白神社に至るのである。25年前は右の道がメインな道であったのだが、現在は左の道が開発されて、京都一周トレイルとして整備されている。その途中に俊寬山荘跡の石碑があるのだ。右の道は今は廃道になっている。地図でも、その道は途中で途切れている。

廣田さんは第二回目の探検を行い、今度は右の道を取った。道には倒木が散乱していて、目的意識がないと、とても歩けない道である。かなり山を登ったところで、「左、俊寬旧跡」と記した石碑を発見した。しかし、その左に道らしい道はなかった。さらに上ると、トレイルの正式な道に出くわした。それを北に進むと、大文字山の火床に至る。そのあたりは、ハイカーで賑わっている。そこから銀閣寺に降りることができる。私たちは25年前には、その石碑は発見していない。ということは、その手前に分岐があり、そこで左手の道を取って、語白神社に出くわしたというわけだ。

ついに発見

そこで第三回の探検隊が組織された。今回は廣田さんを隊長として、25年前にことしろ神社を発見した友人、それに大学院生、大学生からなる4名の探検隊である。2011年12月11日に探検が行われて、そして、ついに悲願のことしろ神社を発見した。私は体調の関係から探検隊に参加しなかったのだが、1時に携帯電話があり、発見したという報告を受けた。

それは廃墟になっていた。鳥居は倒壊していて、社務所にも倒木が倒れかかり、ぼろぼろになっていた。本殿だけは、内部はいろんなものが散乱してはいるが、建物自体はまだ健全であった。そこに落ちていた祝詞から、1976年にここで神事が行われたことが分かる。我々がここを発見したのは1985年の頃だから、その当時までは人は常駐はしていないが、手入れはされていて、整備されていたのだ。それがどういう理由か、放棄されて、現在のような廃墟になったと思われる。ちなみに、社務所も祝詞も「九十四露神社」という字が当てられていた。私は字の読みだけを記憶して、字自身は忘れていたのだ。

さらに考えるに、鳥居跡は廃道の横にあったので、85年当時は、それを発見して、そちらの方角に進んだものと思われる。ところが廣田さんの第二回の探検では、鳥居跡に目がいかず、それを通り越して進んでしまったことになる。

ネットを調べてみると、九十四露神社を発見したのは我々が初めてではないようだ。下記のブログの人たちは、2006年にすでに九十四露神社を発見している。彼らは山歩きの途中で携帯電話をなくしたりペンケースをなくしたり大変だったようだ。事代主命が結界を張っているのではないかなどと冗談を言い合った。

http://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/044509fb717544405509f3151fd62ff5
http://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/9e184c55fae3216f214acda66c1fd779
http://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/235c51d26175375f311f3087f097e8c6

九十四露神社の由来の推理

それではこの九十四露神社とは一体何なのだろうか。ネットの調査によると、宗教法人 「古神道太加茂須弥教(おおかもすみきょう)」というものがあって、その神社らしい。その神社は次のような和暦を編纂して、発行していた。

太加茂須弥祖家・編纂《九十四露方位暦 1995 九十四露神社》P48発行所;天地本宮 
発行者;宗教法人 古神道太加茂須弥教(日本民族古代文化研究会)
本部;606 京都市左京区鹿谷大黒谷町1-45

ネットの記述によると九十四露神社は平成7年まで九十四露暦を発行していた。その後、途絶えたところを見ると、後継者が亡くなられたようだ。

ちなみに上記の本部の住所の大黒谷町は山の中で、1-45はまさにあの九十四露神社なのである。あんな山の中まで番地がふられているとは想像できなかった。東京本部の電話は今は使われておらず、その住所はグーグル・アースの調査からは、中華料理店になっている。落ちていた祝詞に書かれていた住所は、鹿ヶ谷の近くの浄土寺にあるが、現在は今出川沿いにある喫茶店と学生アパーになっている。つまり太加茂須弥教はすでに途絶えたようである。

和暦を発行しているところとしては高島易断が名高い。そのほか近江神宮、熱田神宮がある。

その近江神宮の方からの情報では、太加茂須弥教は九星説を唱えた安井一陽という人の創始らしく、そのお弟子さんと暦を発行して、九十四露神社に奉仕しておられたが、30年ほど前に他界され、その跡を継いだお弟子さんも他界されたとのこと。それで九十四露方位暦も1995年版を最後に途絶えている。安井氏は京都の陰陽頭の家とのことで、近江神宮に日置盤(碁盤のようなもの)を奉納している。また「九数霊学ー運勢暦と開運の法」(1967年)という本も出しておられる。

ただ、京都の陰陽師の頭は安倍晴明の後継である土御門家なので、その辺の関係は不明である。土御門家は代々、日本の暦を作ることを幕府から命じられていたと思う。これらの情報を総合すると、九十四露神社は太加茂須弥教の神社で、その太加茂須弥教は古神道とはいうものの、明治以降に作られた新興宗教ではないかと想像される。

後は妄想である。語白神社、九十四露神社、事代神社は事代主命を祭った神社である。事代主命は賀茂族の守り神である。賀茂族は奈良県の葛城の地から京都盆地にやってきた人々である。京都では上賀茂神社、下鴨神社が賀茂族の守り神として有名である。安倍晴明の子孫であろう安井氏が東山山中に、事代主を祭る神社を造った理由はまだよく分からない。何か情報をお持ちの方は、教えていただきたい。下記にグーグル・アースの上に九十四露神社の位置を示す。

 

追記 真実が判明した。この続きは小説「シミュレーション世界の聖子ちゃんの冒険」を参照の事。

 

   
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