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S氏がもしAI作曲家に代作させていたとしたら?

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S/N
S氏がもしAI作曲家に代作させていたとしたら
What If AI Composed for Mr. S?

中ザワヒデキ、草刈ミカさま

松田卓也です

以前にご招待いただいた、京セラ美術館で開催中(2021年1月23日- 4月11日)の「平成美術:うたかたと瓦礫」展に昨日行ってきました。岡崎公園は桜もすでに散り始めていましたが、たくさんの人出で賑わっていました。京セラ美術館は以前は国立博物館といって、私はよくそばを通ったものですが、中に入るのは初めてでした。老朽化したので京セラが資金を出して内装を一新したのです。近くの京都会館も1960年代に私が学生の時によく音楽会に通ったものですが、これも老朽化してロームの資金で立て替えました。

京セラ美術館はまず建物の中に入るのに入り口がわからず、周りを一周してしまいました。それでもなんとか入ると、内部は綺麗になっていました。「平成美術」は一番奥の東山キューブという部分で開催されていました。中に入るとまさに瓦礫の山のようでした。現代芸術に疎い私は、これが芸術かと思いながら一周しました。古いテレビをたくさん集めたコーナーが興味深かかったです。

ようやく中ザワさん、草刈さんのコーナーを見つけて一巡しました。S氏(佐村河内守:さむらごうちまもる)がN氏(新垣隆:にいがきたかし)という人間ではなく、AIに作曲を依頼していたらだれが真の作曲家かという問題提起ですね。S氏がN氏に代作を依頼した指示書と楽譜がとくに興味深かったです。200ページにも及ぶスコアーをみて真っ先に思ったのは、すごいなあ、これでN氏はいくらもらったのだろうということです。後で調べると200万円だそうですが、1ページ1万円で安いと思います。それにしてもN氏はすごい作曲能力だと思いました。総譜をみるとクラクラします。指示書は確かに曲の雰囲気を指示していますが、これだけではどんな音かは全く想像もつかず、やはりこの曲はN氏の作曲であると思いました。

興味を惹かれて帰宅後に佐村河内守作曲「交響曲第1番」をYouTubeで聞きました。なかなか荘厳な曲ですね。クレジットは佐村河内守/新垣隆となっていました。でも現状の音楽の常識ではあくまで新垣氏の曲でしょう。演奏後に佐村河内氏が現れて、聴衆の絶大なコールに応えていました。これは多分、事件が公になる前だと思います。知りませんが。曲自体はベートーベン、ブラームス、ブルックナー、マーラーの流れをひくものですね。あとでカラヤン指揮ベルリンフィルのベートーベンの交響曲第3番「英雄」を聞いてしまいました。

この事件に関して、私の感想はこの曲が佐村河内守作曲でなくて、最初から佐村河内、新垣の共同作曲としておけば問題はなかったはずです。科学論文では現代では共著が当たり前で、単著論文は珍しいです。単著論文はすごい論文か、あるいは共著者を集められなかったという意味で価値が低い論文だと感じます。佐村河内氏が指示書だけ出して新垣氏が作曲したというのも、科学論文で言えば教授が全体方針を示して、学生や助手が研究したというのと同じことです。この場合でも教授の単著として発表されれば、事実がわかればアカハラと指摘されます。芸術の世界も今後、共著を認めれば問題はなくなるはずです。

ところで教授と学生の科学論文の共著問題ですが、学生側はえてして教授は単に指示を与えただけで、実際に手を動かしたのは自分だから自分の研究であると思いがちです。しかし研究において真に重要なのは、基本的な発想の部分です。ですから教授の功績部分は大きいのです。学生がのちに立派な科学者に成長して独自に論文をかけるようになれば、それは成功です。しかし他人からの指示や助けがなければ研究できないなら、単に手を動かすだけが研究だと思ったのは錯覚です。

S氏とN氏の問題も、S氏を単に詐欺師というのは適切でないと思います。科学研究の場合で言えば、S氏が教授でN氏が学生に相当します。N氏がのちに独自にすごい作品を発表できるならいいのですが。

映画も芸術ですが、こちらは監督と俳優だけではなく、プロデューサーが重要です。その例ではS氏はプロデューサーですね。映画ではその他、関わったあらゆる人がクレジットされます。音楽もその他の芸術も関係者全員をクレジットしておけば、この事件は生じなかったでしょう。

さて中ザワさん、草刈さんの問題提起、もしS氏が人間でなくてAIに作曲させたらだれの曲になるかですが、私はその場合はS氏だろうと思います。現在でもデスクトップミュージック(DTM)アプリを駆使して作曲しても、作曲者は当然、人間でしょう。DTMアプリは要するに楽器みたいなものです。将来はAIが作曲するといっても、AIは多分、一種の楽器のようなもので、全く自動的に作曲することは多分なくて、指示書に相当する部分が必要と思います。グーグルのGPT-3は音楽のイントロを与えると、そのあとを作曲するそうですが、まさにそんな感じですね。将来の作曲家は作曲用AIを買って、その使用法を学んで、いろんな曲想をAIに与えて、ああでもないこうでもないと思いながら作曲すると思います。そうなると作曲という高度な行為に対する敷居が低くなるので、誰でもが作曲できるようになるでしょう。作曲の大衆化がおきて、作曲コンテストが行われるかもしれませんね。ヤマハとかローランドが作曲用AIの製品を出すでしょうね。

私は色々妄想するのが好きです。演奏もAIが行うことを夢想します。例えばピアノを例にとれば、自動ピアノの場合のようにAIが勝手に演奏するのでは面白くありません。人間が腕と指に外部骨格を装着してピアノを弾くのです。楽譜はヘッドマウント・ディスプレーに表示されて、人間が最初の指示を与えると、指が勝手にピアノの鍵盤を叩くのです。これはあくまで練習用でして、最後は機械を外して一人で演奏するのが目的です。というのもAIがかってに演奏するのでは、人間から見ればつまらないからです。鍵盤を叩くタイミングとか速さ、強さは人間が指示します。そうでなければ全く同じ演奏になってしまって、つまりませんから。資本主義社会で自動演奏ロボットが商業的に成功するためには、消費者の満足感を満たす必要があると思います。この場合もピアノ演奏の大衆化が起きて、音楽自体は繁栄すると思います。書道も同じことで、だれでも王羲之の書が書けるようになるのです。AI芸術が出現すると芸術の大衆化が起きて、芸術が芸術家の専売特許でなくなるでしょうね。それはそれでいいことではありませんか。それでも芸術自体はなくなることはないでしょう。

私は科学者ですから、芸術ではなく科学するAIを妄想します。将来は科学用AIの製品ができて、それに科学的なアイデアを入れると、研究で複雑な労力を必要とする部分、たとえば文献調査、式の変形、計算、論文書きなどを代行してくれます。そうして科学研究という従来は高度な技術を必要とする分野の大衆化がおきて、一定の訓練を受ければ科学論文が書けるようになります。

それでも誰でもが科学論文をかけるかというと、そんなことはなく、DTMの操作がそれはそれで高度な技術を必要とするように、やはり勉強しないと、そもそも科学的発想がうまれないから論文は書けないでしょう。科学研究に補助AIを使ったとしても、やはり人間側の頭の良さは必要でしょう。

つまり芸術にしろ科学にしろAIが勝手に自律的にやってしまうのでは面白くなく、やはりAIを使って人間が芸術や科学をするから面白いと思います。中ザワさん、草刈さんからいただいた招待用のチケットから始まった私の妄想です。

<佐村河内守 交響曲第1番 HIROSHIMA 第3楽章 フィナーレ>

以下は参考文献です。

https://www.aibigeiken.com/store/sn_j.html
https://www.aibigeiken.com/research/r033.html
https://www.aibigeiken.com/research/r032.html

   
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