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EUのヒューマンブレイン・プロジェクト開始される

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ヒューマンブレイン・プロジェクト

2013年1月27日の英国の新聞ファイナンシャルタイムスは、 EUの予算により今後10年間行われる巨大研究計画として、ヒューマンブレイン・プロジェクト(Human Brain Project)とグラフェン・プロジェクト(Graphene Project)が選定されたと報道した。ヒューマンブレイン・プロジェクトとIBMのシナプス計画に関する私の解説はここ、そのホームページはここを参照のこと。

この研究計画は未来萌芽的技術(Future and emerging technology=FET)計画とよび、情報通信技術 (ICT)分野の野心的な研究に対してEUが10年間にわたり総額、最大10億ユーロ(約1200億円)の補助を行うものである。たくさんの応募研究の中から6つの候補が選ばれて2年間の試験期間があり、そしてその中から今年2件が選定されたというわけだ。ちなみに選に漏れた他の4件のタイトルだけを紹介しておこう。 1)未来のICT(生きている地球シミュレーター) 、2 )守護天使(ゼロエネルギーの個人アシスタントコンピューターの開発) 、3)ITを利用した未来医学、 4)個人用ロボットの開発、である。いずれも甲乙付け難い野心的な計画と思われる。

ヒューマンブレイン・プロジェクトとは人間の脳を詳細にコンピューターでシミュレートすることによって脳をリバースエンジニアリングしようという野心的な計画である。スイスのローザンヌにある連邦工科大学のヘンリー・マークラム教授が率いるプロジェクトである。現在マークラムは、ヒューマンブレイン・プロジェクトの前駆計画としてブルーブレイン・プロジェクトを行っている。

ヒューマンブレイン・プロジェクトとグラフェン・プロジェクトは今後10年間にわたり少なくとも5億ユーロの補助を受けることになる。ファイナンシャルタイムスの報道によればヒューマンブレイン・プロジェクトが選定された事は驚きであるという。というのはこの計画は大脳をスーパーコンピューターでシミュレートとしようと言う野心的な計画で、しかもカリスマ的な神経生理学者であるマークラム教授により率いられているからである。この計画は脳研究者の中で非常に問題視されているという。もっとも資金はマークラム教授だけが使うわけではなくヨーロッパ中の研究者に分配される。

研究計画書によれば、脳を構成する分子、細胞の動作に関するあらゆる知識を動員して、スーパーコンピューターを用いてボトムアップ的に完全な人間の脳のシミュレーションを行おうというものである。この計画は成功すれば、人間の脳の様々な病気に関する知見が得られるだけでなく、より優れたコンピューターやロボットを作ることができる。

ファイナンシャルタイムスの批判的立場

このファイナンシャルタイムスの記事の基調は、ヒューマンブレイン・プロジェクトに対してかなり批判的なものに筆者には感じられる。その一つの理由は前評判では未来のICTと守護天使が有力だったことによるのだろう。さらに勘ぐってみれば、マークラム教授はEUに参加していないスイスの研究者であり、ファイナンシャルタイムスの英国が選から漏れたことの無念さにもあるのではないだろうか。ちなみに選に通った計画の国籍はヒューマンブレイン・プロジェクトがスイス、グラフェン・プロジェクトはスウェーデンである。その他は英国、ドイツ、フランス、スイスである。

もう一つの理由は、記事の書き方から判断して、マークラム教授が科学者コミュニティの中においてあまり評判が良くないと想像されることだ。 実際、以前に紹介したのだが、米国におけるヒューマンブレイン・プロジェクトに相当するIBMのSyNAPSE計画に対して、IBMとその計画の指導者は詐欺師であるとまで、マークラムは強く批判している。SyNAPSE計画はある賞を受賞しているのだが、審査委員は騙されているとまで言っている。インタビューワーが、そこまで言うと訴えられるのではありませんかと心配したほどだ。 IBMと喧嘩する前は、マークラム教授はIBMと仲が良く、 IBMからスーパーコンピューターを安く調達していたのだ。非常に個性の強い人物のようだ。

われわれはまだ脳をシミュレートする準備が整っていない

ファイナンシャルタイムスの先の記事が出た数日後の2013年1月31日に、再びファイナンシャルタイムスにヒューマンブレイン・プロジェクトを批判する米国の研究者マーカス(Gary Marcus)の論文が掲載された。その要点は次の通りである。

先の月曜日にEUから発表された10年間に12億ユーロもの予算を投じて人間の脳をシミュレーションしようと言うプロジェクトは、ラージハドロンコライダー(LHC) の6分の1もの予算を使う最大の神経生理学的プロジェクトである。しかしその計画は脳の作用を理解する上で重要ではあるが欠陥のあるものだ。
その欠陥は非現実的な目標にある。科学雑誌ネーチャーの言葉を借りて言えば、人間の脳を完全にシミュレートしようというヒューマンブレイン・プロジェクトの目標は『素晴らしい野望であるが、懐疑心を持って見られている』。脳はあまりに複雑なので今日のコンピュータで正確にモデル化することはできない。今後10年では不可能であるというのが大方の見方である。過去20年にわたってそのような試みがなされてきたが成功していない。だからコンピュータの進歩を少なくともあと10年は待つ必要がある。

また我々は脳についての基礎的なプロセスもあまりよく理解していない。理解していないものを基礎として脳をシミュレートすることはできない。要するにマークラムの計画はあまりに要素的自然観に基づき物理的過ぎて、かつ野心的すぎるというか、ほとんど不可能なのである。脳を全体的に調べ尽くすという、ニュースにはなるが出来そうにもない目標を掲げることは予算の無駄遣いである。

もっともその資金は、マークラム1人で使うわけではなく、ヨーロッパの多くの研究者に配分される。その意味ではよいだろう。

感想

筆者にはどちらの言い分が正しいのかわからない。批判にも一理はあるように思える。しかし予算は下りたのだから、あとは結果を待つしかない。それは10年後にわかることだ。たとえ人間の脳を完全にシミュレートできなかったとしても、この計画からスピンオフする結果は多いと予想される。また人間の脳を完全にシミュレートしなくても、その原理の1部でも利用して新しいコンピュータチップができればもうけものである。

例えば空を飛ぶ機械を作るという目標を立てたとしよう。空をとぶ鳥をよく研究してその真似をして飛行機を作るという行き方がある。しかし人類は鳥の真似をして空を飛ぶことには失敗したが、固定翼にエンジンをつけるという手法で空を飛ぶことに成功した。人類の作った飛行機は鳥よりも速く、高く飛ぶことができる。マークラムの計画はある意味で鳥の真似をして飛ぼうということに相当する。まったく別のアプローチの方が良いのかもしれない。しかし誰にもわからないことだ。


松田卓也(まつだたくや)
1943年生まれ。宇宙物理学者・理学博士。神戸大学名誉教授、 NPO法人あいんしゅたいん副理事長、同付置基礎科学研究所副所長、中島科学研究所研究員、ジャパン・スケプティックス会長。 1970年、京都大学大学院理学研究科物理学第二専攻博士課程修了。京都大学工学部航空工学科助教授、英国カーディフ大学客員教授、神戸大学理学部地球惑星科学科教授、国立天文台客員教授、日本天文学会理事長などを歴任。主な著書に「これからの宇宙論--宇宙・ブラックホール・知性」 (講談社ブルーバックス) 、 「正負のユートピア-人類の未来に関する一考察」 (岩波書店) 、 「新装版 相対論的宇宙論--ブラックホール・宇宙・超宇宙」 (共著、講談社ブルーバックス) 、 「なっとくする相対性理論」 (共著、講談社) 、 「タイムトラベル超科学読本」 (監修、 PHP研究所)、「2045年問題--コンピュータが人類を超える日」(廣済堂新書)など
   
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