| 「あいんしゅたいん」でがんばろう 13 |
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| 作者: 佐藤文隆 |
| 2009年 7月 01日(水曜日) 21:24 |
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前回書いた「数物」とフェルミ問題の絡みで思考が太宰治の「人間失格」に飛び火した。十数年前に書いた文章を「太宰生誕百年」記念の盛り上がり記事を見ていて思い出した。太宰は「掛算割算の応用問題として」の「科学の嘘」「統計の嘘」「数学の嘘」を乗りこえたと主人公に語らしている。フェルミ問題とはまさにこの「掛算割算の応用問題」である。 1996年に書いた私の文章「問われる科学者のエートス」で引用している「人間失格」の一節(「第三話」の一節)をまず見てもらおう。 「自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。世の中というところは、そんなに、おそろしいところでは無い、と思うようになりました。 やたらに数字が登場し、まさに「数量で考えよう」を実行したあとでその無意味さを断罪するのである。私がこの引用箇所を議論しているのもまさにこの「断罪」に簡単に引き下がってはならないと考えたからである。この長文は小説の前後をとってみても必然性がなく、要するに太宰が言いたかった「科学論」なのだと思う。廃人の口を借りて断罪したかったのは世間にはびこる科学への名状しがたい畏怖と幸福をもたらさないその視点が同居する文化世界の異様さなのだと思う。 「幸福をもたらさない視点」とは、例えば、同級生のがんでの訃報を知って「ああ、助かった」と考えるのは不道徳であろうが、確率論的にはそれは正しい理解である。知識をどう使うかの教えは科学にはないのである。このそれこそ人類3000年の学問論を巡る問題について私は自分なりの考察を続けた。拙著「科学と幸福」(岩波現代文庫)、「科学者の将来」(「問われる科学者のエートス」はこの本に再録)(岩波書店)などがそれらである。大事なポイントは科学に威圧されて呑みこまれないことであり、科学を睥睨するような知的立場に立とうと努力しつづけることである。 「重い話し」は別の機会にゆずり、佐藤版フェルミ問題「大阪には何軒、葬儀屋があるか?」の解答例を添付しておく。
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