SFアニメ・サイコパスとシングルトン
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- 作成日 2021年5月05日(水曜)00:47
- 作者: 松田卓也
「サイコパス」というのは日本のオリジナルテレビアニメ作品である。2012年10月から2013年3月にかけて第1期22本が放映され、2014年には第二期11本が放映された。さらに2015年には劇場版も公開された。2019年10月からは第3期が放映された。
なぜこのテーマを取り上げるか。実は私はWIREDという雑誌からサイコパスに関するインタビューを受けたからだ。そこで私は、1期は全部見て、2期もほとんど見たし、劇場版も見た。
まずアニメの概要を説明する。舞台は2112年の日本で、シビュラシステムという並列分散処理のスーパーコンピュータが導入されて、それが日本を支配している。犯罪に関しては、ひとびとの犯罪係数というものを定義して、それがある値を超えるとたとえ犯罪を犯していなくても、潜在犯として裁かれる。
そのような社会の犯罪を抑圧するために厚生省所属の警察組織「公安局」がある。公安局の刑事はシビュラシステムに接続したドミネーターという銃を携帯している。これを相手に向けると犯罪係数が測定され、それが規定値をこえると発砲できる。犯罪係数がそれほど高くない場合は、麻酔銃として働くが、高い場合はそのまま殺してしまう。
公安局の刑事は実際に刑を執行する執行官とそれを監督する監視官に別れている。執行官は実は高い犯罪係数を持っている。犯罪者をよく理解しているからだ。監視官は上級公務員試験をパスしてきたエリートである。
話は新任監視官として配属された常守朱(つねもりあかね)という若い女性の成長物語というお定まりの設定に沿っている。さまざまな犯罪者があらわれ、シビュラシステムと対決する。話が進むにつれ、シビュラシステムの正体が明かされて行く。それはスーパーコンピュータと思われていたのだが、そうではなく200以上の人間の脳の集合体であったのだ。その脳はもともと犯罪係数の高い人物から取ったものである。
この物語の二つのユニークな特徴について語りたい。ひとつは頭脳集合体としての超知能だ。ちょっと水を差すようだが、247程度の脳を集めただけでは、このようなリアルタイム処理はできないと思う。例えて見れば、247人の人を会議室に集めて、大きなスクリーンに情報を投影して、物事を即座に判断するシステムを考えればよい。長期的判断はともかく、即座の判断力となるとそれほど大きな能力にはならないだろう。
私が妄想するのは、生きた人間の脳を切り取って集めるのではなく、幹細胞から脳を育てて、それを1万とか100万集めてシステムにするのだ。アニメでは脳は平面に配置されていたが、空間の使用が非効率だ。私なら脳一つが入る水槽をたくさん用意して、それを縦に例えば10個積んだラックをつくり、それを100列に並べると、これだけで1000個の脳がラックマウントできる。保守通路の両側にそのラックを置くと、一列が2000の脳からなり、それが100列あると20万個の脳を配置することができる。しかしこのシステムは脳をいわば赤ん坊の段階から育てなければならないから、完成するまでに20年ほどかかるであろう。
最近のニュースで、皮膚から取った細胞から小さな脳を作ったら、神経パルスが確認されたという。これでシビュラシスムを作れる可能性が出てきた。
シビュラシステムとは一種のシングルトンである。シングルトンとは何か? それはオックスフォード大学の哲学者のニック・ボストロムの考えたもので、要するに社会の唯一の支配者である。つまりは独裁者なのだが、公正無私な完全な独裁者である。
ギリシャ時代の哲学者であったプラトンがそのようなものを考えている。彼は当時の民主政治は衆愚政治であるとして排除した。その代わりに完全無欠に育てた完全無欠な哲学者に支配を任せるのである。これを哲人政治とよんだ。プラトンはそれを実験したのだが、うまくいかなかった。私利私欲がなく完全無欠な人間なんていないからである。
一人の人間の独裁者では能力的に無理がある。そこでシングルトンは人間の集団である官僚組織かもしれないし、未来ならスーパーコンピュータであるかもしれない。過去の経験からして、人間の独裁者とか、あるいは官僚組織は公正無私とか完全無欠であった試しはないし上手くいったという話もない。
だからスーパーコンピュータ上の人工知能に支配を任せるのである。現在の人間社会の運営は、官僚組織である政府が行なっている。しかし人間のすることだから、非効率であるし公平でもない。例えば警察や検察、裁判などの司法組織は完全に公平とはいえない。法律という規則があるのなら、それに完全に機械的に従えば良いのだが、人間のすることだから恣意性が入り込む。
しかし人工知能がルール通りに法を執行するなら、人々は文句を言えないはずだ。つまりシビュラシステムを人間の脳ではなく、未来のスーパーコンピュータに任せるのである。もっともそのようになった時、人間社会はアニメ「サイコパス」で描かれたような無気力な社会になるのであろうか。
もうひとつ気が付いたことは、この「サイコパス」にしろ「攻殻機動隊」にしろ、権力とその手先としての警察組織・治安組織を主人公にしていることだ。つまり権力が正義で、それに反抗するのは悪という立場で描かれている。一方、米映画の「マトリックス」では反体制のネオたちがいいもので、体制側の手先としてのエージェント・スミスは悪人として描かれている。
日本で人気のドラマ、例えば水戸黄門、暴れん坊将軍、大岡越前、長谷川平蔵、遠山の金さんたちはすべて権力が良いものになっている。つまり日本ではお上が善なのだ。アニメ「サイコパス」も基本的にその線を守っている。そうでないと、日本では受け入れられないのであろう。
アニメ「サイコパス」について述べた。それは22世紀の日本の話である。その時代はシビュラシスムという、人間の脳の集合体でできた一種のスーパーコンピュータが社会を支配している。それはニック・ボストロムのとなえるシングルトンに相当する。