人間には理性はない!?!・・・心の二重過程理論
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- 2012年6月05日(火曜)10:54に公開
- 作者: 松田卓也
「話せば分かる」という言葉がある。つまり他人に真理、正しい事を説明するのに、理屈でじゅんじゅんと説得すれば分かるという信念である。私は基本的にコレは正しくないと思う。人間の頭脳の働きは二種類に分けることができる。一言で言うならば理性と感性である。あるいは理屈とフィーリングと分類することもできよう。人間の行動を主に支配しているのは、合理性とか理性ではなく、感性でありフィーリングなのである。そのことは最近のさまざまな研究で明らかになってきた。そのことを知ると人間界のさまざまな出来事が非常によく理解できる。知らなければ人を動かすことができない。逆に熟知していれば、人を思うがままに操ることができる。それをさまざまな例でしめそう。
さらにそれに関連して、科学とイデオロギー・価値観、信念体系などについても論じる。最後に「人間には理性がない」とする松田の最終法則を紹介する。
頭脳における二重過程理論
人間の脳の中には論理的な系統的処理を行う「分析的システム」と直感的な処理を行う「自律的システム」が平行して存在している。それぞれが独自のメカニズムで動いている。つまり一つの脳の中に二つの心が共存しているわけである。「分析的システム」と「自律的システム」を、先に述べた「理性」と「感性」と言う言葉で呼ぶことにする。心の働きに対するこういった考え方を二重過程理論と呼ぶ。
この理性と感性という思考の二重過程は様々な学者により、様々な呼び方がされている。「オフライン的、オンライン的」、「分析的、要点的」、「合理的、経験的」、「明示的、暗黙的」、「推論システム、直観システム」、「意識的、内臓的」、「クールシステム、ホットシステム」、「意識的処理、自動的発動」 (「感性の限界 不合理性・不自由・不条理性」高橋昌一郎、講談社現代新書2153)
二重過程理論によると、一つの脳内に二つの心が共存している。我々が普通「自己」というときそれは「分析的システム」つまり理性であり、このシステムは言語や規則に基づいて処理を行い意識的に物事を処理している。それに対して「自律的システム」つまり感性は刺激を自動的かつ迅速に処理し、意識的に制限できない反応を引き起こす。
例えば我々は唾を飲み込む動作を自然にするが、一度唾を外に出し、それを皿にいれて、それを再び飲むことができるかというと、普通それはできない。理性で考えればそれはおかしい。自然に飲み込む唾も、一度外に出した唾も自分のものであるから、理屈だけで言えば何の変わりもないはずである。しかしほとんどの人はそれを拒否するのである。それは自律的システムが受け付けないのだ。
いろんな外見のケーキを食べさせる実験がある。みんなおいしいと喜んで食べた。ところが次にうんこの色と形をしたケーキが出た。被験者は誰も食べなかった。言葉で、このケーキがいくらおいしいか説明してもダメであった(上掲書)。
ゴキブリを怖がる人が多い。しかしゴキブリは蚊と違って、マラリアのような病気を媒介するわけでもなく、毒グモのように毒を持っているわけでもなく、また噛みつくわけでもない。理屈で言えば恐いものでは無いはずだ。しかし多くの人間はそれを嫌悪する。多くの人々が非理性的だと嘆く、非常に理性的な学者であっても、ゴキブリを怖がるのである。
ちなみに筆者はゴキブリは怖くないが蛇は嫌いだ。ある友人は蛇はかわいいものだという。しかし彼もゴキブリを怖がるのである。私はゴキブリがなぜ怖くないかを理詰めで説明し、友人は蛇がなぜ可愛いかを理論的に解説したが、お互いを説得できなかった。「話せば分かる」なんてことはないのである。
怖いものは怖い、いやなものはいやなのだ。要するに理屈ではないのである。フィーリングなのである。これらの例では、人間の行動を決定しているのは、理性ではなく感性なのだ。
これらの二つの心の働きは、人間の進化の過程で獲得してきた性質である。特に感性の部分は、人間の脳の中にハードワイヤーとして組み込まれているのである。感性を持つことは動物の生存にとって有利な性質であるから、それが脳内に組み込まれているのである。スタノヴィッチの二重過程理論では、ヒトの感性は遺伝子の利益を優先し、理性は個体の利益を優先しているという(前掲書)。人間は理性と感性に葛藤が生じるような危機的状態に置かれると、混乱したあげく、より根源的な感性に支配された行動を取る。
マイケル・シャーマーの1型エラーと2型エラー
マイケル・シャーマーはアメリカのスケプティックスの創始者である。スケプティックスとは懐疑者と言う意味であるが、超能力.超常現象、UFO などの疑似科学を批判的に研究する会である。マイケル・シャーマーは、現在はアメリカのスケプティックス・ジャーナルの編集長をしている。ちなみに私はジャパン・スケプティックスの会長をしている。アメリカのスケプティックスの会員数は3万、それに対し日本の会員数は百人程度である。全く比較にならない。
そのシャーマーが非常に面白いことを言っている。今から300万年前のアフリカのサバンナである。原始人が草むらの前を歩いている。その草むらでガサガサと音がした。その音の原因は単に風かもしれないし、猛獣かもしれない。猛獣だと思って逃げたが、実際は風だった場合は、その人は間違いを犯したのだが、それをシャーマーは1型エラーと呼ぶ。一方、風と思って逃げなかったが、実際は猛獣であったので、その人は食われてしまった。この場合をシャーマーは2型エラーと呼ぶ。
1型エラーを犯した場合は特に何ということはないが、2型エラーを犯すような人間は進化の過程で淘汰されてしまう。つまり人間は基本的に1型エラーを犯すようにできているのだとシャーマーは主張する。
この場合の1型エラーとは要するに怖がり過ぎのことである。怖がりすぎは無難である。人間はこの怖がりすぎの性質を持っている為に生きながらえてきたのだ。つまり人間が怖がりすぎるという性質は、進化の過程で獲得した重要な特長である。
上記の例は表面に現れたわずかな情報から、その背後にある大きな意味のあるパターンを推測しようとする人間の傾向を表している。人間は雑多な情報から、意味のあるなしにかかわらず、パターンを見つけようとする傾向がある。この傾向をシャーマーは「パターン性」と呼んでいる。
無意味なパターンを見つける傾向が、先にのべた1型エラーである。錯覚とか錯視と呼ばれるものがこれである。無意味なパターンの一つの例が迷信である。「幽霊の正体みたり、枯れ尾花」というのはまさにこの例であろう。夜道で見た枯れ尾花と言うわずかな情報から、その背後にある幽霊というパターンを人間は推測しやすいのである。人間が夜を怖がるのは自然なのである。
シャーマーはこの現象を様々なデータで示す。人間が1型エラーを犯す傾向は人間の脳に深く刷り込まれていると主張する。脳が進化の過程で、そのようになったのだという。シャーマーによれば、宗教、迷信、UFOは1型エラーがもたらしたものであるという。つまり神、幽霊、エイリアンなどは1型エラーの産物だというのだ。
人間は信じたい生き物であるとシャーマーは主張する。人間にはまず信じたい結論が先にあって、その理由は後から考え出すのである。人間は進化の過程でそのようにしくまれているのだ。脳の機能、構造からそうなっているのだ。だから人間にとっては信じないこと、つまり懐疑的精神、科学、理性、合理性は不自然なものなのだという。このように考えるとなぜ迷信がはびこるかがよく理解できる。
シャーマーの話はTEDの講演集のひとつに納められている。ちなみにTEDの講演集は、世界の、聞くに値する話がたくさん網羅されていてとても参考になる。プレゼンテーションの時間は18分以下でありかついろんな言語、例えば日本語の字幕もあるし、さらに全文が英語や日本語で載せられている。これらの翻訳はボランティアがやっているという。話の内容も面白いし英語の勉強にもなるのでぜひお勧めしたい。
寺田寅彦の言葉・・・「正当にこわがることはなかなかむつかしい」
戦前の有名な物理学者に寺田寅彦がいる。夏目漱石の弟子であったことで有名だ。彼の書いたものの中に次のような言葉がある。『こわがらなさ過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた』(小爆発二件、昭和10年11月、青空文庫)。
これは寺田寅彦が軽井沢にいて爆発音を聞いたという話である。浅間山が小爆発を起こしたのだ。道を歩いていると、空から火山灰が降ってきた。しかしそこらで働いている人達は、あまり気にも留めているようには見えなかった。駅に着いたとき、浅間山から下山してきた学生たちが、大したことは無いと話し合っていた。それに対して駅員が、そうでもないのですよと諭していた。当日の新聞報道は、浅間山で大爆発が起きたというものであった。しかしそれは嘘で、一連の爆発の中ではかなり小さなものであったのだ。
ここで寺田が言っているのは、その学生たちは怖がらなさすぎる、駅員が正当に怖がるように諭しているというように、私には読める。
怖がりすぎというのは、シャーマーの言う1型エラーである。私はこの寺田寅彦の言葉が、昨今の低線量放射線問題に非常によく当てはまると思う。多くの人たちは『こわがりすぎている』状態にあると思う。反対にいわゆる安全神話とは、恐がらなさ過ぎることであるとも言えよう。『正当にこわがる』とは、科学的、合理的、データに基づいて怖がるということだ。
怖がりすぎるのは、シャーマーも言うように、人間の本性に根差しているので、放射線が怖いと思うのは不思議なことでは無い。だから放射線が怖いと人々を煽ることは容易である。それをしているメディアや知識人は大きな成功を収めている。人間の恐怖心(や妬み)を煽ると、人を動かしやすいのである。マスメディアはそのことをよく知っている。
科学的に見て、あの程度の低線量放射線は怖くないと人々を説得することは非常に難しい。人間の理性に訴えることは難しいのである。そんなことをする知識人は御用学者とひとくくりされるのである。放射線が怖いのは、理屈とか科学ではないのである。感情なのである。その意味では、低線量の放射線とはゴキブリやうんこに似たケーキのようなものである。
人間を行動に駆り立てるものはwhyでありwhatではない
ここにまた面白いTEDのビデオがある。サイモン・シネク(Simon Sinek)という人の「いかにして偉大なリーダーは人を行動へと導くか How great leaders inspire action」というものである。彼はアップル、マーチン・ルーサー・キング、ライト兄弟を大きな成功例として説明する。
彼は人間の頭脳を三層構造に分ける。それを彼はゴールデンサークルと呼び、外からWhat , How, Whyと名付ける。Whatとは要するに理性であり、言葉で語られるものであり、大脳新皮質がそれを支配している。Howはフィーリングで大脳周辺系が支配している。ここは言語とは関係ない。Whyとはシネクによれば信念であるという。
成功する人間や会社は、この三層構造の内側から外側へ向かっていくという。それに対し失敗する組織は、外から内へ向かうという。例えばコンピューターを例にとると、ある会社が素晴らしいスペックを持つコンピューターを作ったとする。そのコンピューターはかくかくしかじかのすばらしい性能を持っていると言葉やデータで示す。つまりその製品の素晴らしさを、購買者の理性に訴える。そして人々にそれを買えという。しかしそれでは人は動かないとシネクはいう。
アップルにはまず信念がある。そして感性に訴える製品を作る。それがたまたまコンピューターだ。人々はそれを買う。なぜそれを買うかの理屈は、後でつけるのである。まず理屈があるのではないのだ。フィーリングなのだ。
民衆の効果的な支配法
私がこのプレゼンテーションを見て面白いと思ったのは、シネクのテクニックが人々を効果的に支配する技術として使えるということだ。このプレゼンでは、コンピューター、市民運動、飛行機のようなポジティブな側面が語られていた。そしてマーケティングの手法の話であった。
しかしヒトラーのような独裁者も意識的、無意識的にこのテクニックを知っていたのだと思う。人々を動かすのは理屈ではない、フィーリング、感性なのだ。ドイツ人の中にあるユダヤ人に対する何ともいえない反感、嫌悪をあおったのである。それにより理性があるはずの知識人を含めて、ドイツ全体がヒトラーの扇動に乗ったのだ。
無謀な戦争に突入して敗北した戦争前の日本も、理性が支配していたとはとうてい思われない。合理的に考えれば、米国と戦争して勝てるはずはなかった。実際、軍部の要請で、ある軍人が、日米の経済力の差を詳細に分析した。その結果、日本はとうてい米国に勝てないという結論が明らかになった。その軍人は日本の指導者数十人の前で、そのことを報告した。それを聞いた東條たちリーダーは報告書を破棄するよう命令した。米国と戦争するという結論が先にあったのだ。大和魂という精神力で戦争に勝てると主張した。
軍部だけが狂っていたわけではない。新聞などのマスメディアは国民の好戦性をあおった。理性的な一部の日本人は、特高警察により獄につながれたのである。つまり戦前の日本は、理性が国を支配していたと言うよりは、感性の世界であったのだ。日本の国全体が狂っていたのである。現在も事情は多かれ少なかれ同じである。
リーダーが人々の理性に語りかけても、多くの人を動かすことはできない。なぜなら理性で動く人は少ないからだ。人々の怒り、妬み、恐怖をあおるのが効果的である。人々を怒らせ、妬ませ、恐怖させて彼らの感情に語りかけるのだ。小泉元首相は効果的にこの手法を使った。自分に反対する人たちを「抵抗勢力」と名付けて、人々の怒りの対象にした。公務員に対する民衆の反感と妬みをかき立てることで、政治目標を達成した。最近も国内外のポピュリスト的政治家は成功を収めている。彼らの手法は同じである。適当なスケープゴートを探して、彼らに対する民衆の怒りに火を付けるのである。放射線に対する民衆の恐怖を利用して、自分の政治目標を達成するメディアや政治家もある。
科学とイデオロギー
放射線の問題が厄介なのは、それが原子力発電と関係しているからである。原発を推進するのか、或いは反原発の立場をとるかは、イデオロギーの問題、或いは政策の問題である。少なくとも科学の問題では無い。価値観の問題であると思うので、決着のつかない問題である。
反原発であれ、原発推進であれ、どちらにせよそれを擁護する理屈を組み立てることはできる。というのも、この種のことは、まず主張する人の信念、イデオロギーがあり、信じたい結論が先にあって、それに理屈をつけるのである。昔から「理屈と膏薬は何にでもくっつく」と言われている。
一方、低線量放射線が人体に悪影響を及ぼすかどうかは科学の問題である。科学の問題であれば、原理的にはデータを集めることによって決着をつけることができる。イデオロギーの問題と科学の問題を混同すべきでは無い。
ところが NPO法人あいんしゅたいんの理事長が、低線量放射線問題を徹底的に勉強して本や論文からデータを集めて研究し、その結果、福島程度の低線量放射線はそれほど危険では無いと述べたことに対して、そのような言い方は敵を利するのでやめるべきだという、ある左よりの学者から抗議があった。
これは言ってみれば、イデオロギーのためには科学的事実を曲げてもよいという主張だと私には思われる。旧ソ連で起きたルイセンコ学説の悲劇を思い出させる。ルイセンコという学者が共産党に取り入り、メンデルの伝統的な正統派遺伝学を否定して、正統派の遺伝学者をシベリアの収容所に送り込んだという事件である。このことはソ連にとっても非常に不幸な事件であった。そのため、ソ連の農業は打撃を被り、遺伝学は大きく遅れたのである。自然の真実をイデオロギーでねじ曲げると、最終的には不利益を被るのである。
科学(サイエンス)においては証拠、根拠、データに基づいた議論をしなければならない。科学においては主張されている事が客観的な事実かどうかが問題になる。しかし世の中は科学だけでは決着がつかない。価値感(バリュー)が重要な地位を占める。これは信念に基づくものであり、好き嫌い、つまりフィーリングで決まる主観的なものである。ただし科学と価値観、この両者は一応は別のものであるということを認識することが重要である。
信念体系
人間は何事かを判断する場合に、判断の基準がある。それを信念体系(Belief system)と呼ぶ。その基準には2種類ある。証拠に基づいたもの(Evidence Based)と信念に基づいたもの(Faith Based)である。科学は証拠に基づいた信念体系であり、宗教や哲学、イデオロギーは信念に基づいた体系である。
科学は証拠に基づいた体系であるので、世界は観測や実験で理解できると考えている。また科学で用いる言葉は、厳密に定義された言葉でなければならない。科学の結果は第三者が検証可能であることが前提である。つまり科学とは客観的なものである。その中に信仰やイデオロギーをいれてはならない。
それに対して信念に基づいた体系は、心がつくり出したものであり、証拠に欠ける。つまり主観的なものである。世の中には証拠など出しようがないものも存在する。神の存在など証明できないのだ。だから信念に基づいた体系が劣っていると言うわけではない。また宗教や哲学のように信念に基づく体系に証拠を求めてはならない。
重要なことはこの二つの信念体系が異なるものであるということの認識である。科学と宗教・イデオロギーは別なのだ。どちらが優れているといった問題ではなく、別物なのだ。この認識が欠如しているために世の中の多くの議論は混乱するのである。
だから科学者が科学的議論をする場合に、イデオロギーを混ぜてはいけないのだ。
付録: 松田の最終法則
私も以前から違う側面から同様な結論に達していた。私が提案した松田の最終法則というものがある。「人間に理性はない」というものだ。その法則が成立する理由が、様々な論者の議論を勉強するうちに明らかになったというわけだ。
ところで最終法則というからには他の法則もある。実際、松田の四法則というものだ。
1. 人は自分の意見を主張するが、他人の意見は聞かない。
2. 物事がうまく行った時は自分の手柄であり、うまく行かなかない時は全て相手が悪い。
3. 世界の中心は自分であり、宇宙は自分を中心に回っている。
4. サルは反省するが、人間は反省しない。
この法則は筆者が数年前に出会ったある人物との付き合いの中で発見した偉大な法則である。筆者が人間界のこの真理に倒達できたのはその人物のおかげであり感謝している。
その人物とは一種のインテリヤクザとでも表現できる人物だ。今までの人生でこのような人物に出会ったのは初めてである。ある人はこの人物のため引っ越しを余儀なくされ、別の人はノイローゼになった。マスメディアとはこのような人物で構成されているのだろうか。