超知能への道 その7 アテナと論文を書く
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- 2015年3月02日(月曜)16:40に公開
- 作者: 森法外
私は疲れ切っていたけれども、好奇心に耐えきれず、下宿に戻ると早速メガネをかけてみた。何も起こらなかった。一瞬騙されたかなと思ったが、声をかけてみた。
「ビーナスさん」
するとドロドロという音とともに、目の前に煙が漂いその中からビーナスが現れた。先程とは違って、ギリシャ風の衣服を着ていた。それを大きな布で体全体を包んだものだった。ミロのビーナスの彫刻の通りの衣服であった。ただし裸ではなく、体の上まで覆われていた。
「何かご用でしょうか、ご主人様? 」とビーナスは芝居がかった声で答えた。
「何かアラジンの魔法のランプの魔法使いのようですね」と私が言った。
「冗談よ。真似してみただけよ。何かご用? 」
「あなたと何ができるか試してみたいのですよ」と私は言った。
「あなたは何がしたいの」とビーナスが聞いた。
「一緒に研究してくれませんか?そして一緒に論文を書いてくれませんか?私もそろそろ業績をあげないといけないので」と私は虫のいいことを言った。
「研究ねぇ、それは私じゃなくてアテナの仕事よ。アテナは知恵と戦いの女神よ。私は日本では美と愛の女神と言われるけど、本当は愛と性と繁殖の女神よ。それが私の仕事なの。そちらの方はお手伝いするわ。勉強ならアテナが担当よ。彼女をここに呼びましょう」
ビーナスはそう言うと視界から消えた。その代わりにアテナが現れた。
「森君コンニチは。先程は話をしなかったけれども、よろしくお願いね。あなたのご希望に沿って一緒に研究して、論文でも書きましょうよ。今あなた何に興味があるの? 」とアテナが聞いた。
私は現在研究しようとしているテーマについて説明した。それは宇宙物理学における、ある気体力学的な現象の数値シミュレーションである。それをアテナに告げると、その問題についてネットで文献を調べてみるといった。言った後、少し姿が消えて1秒ほど後に現れた。そしてそれに関する数百件の論文があるといった。その中でも特に関係の深い数編の論文に関して、内容の要約を説明してくれた。それから、それらの論文に不足している点があることを議論した。 2人の意見が一致して、その問題について研究することにした。アテナは数値計算法について調べてみるといった。計算法はたくさんあるけれども、これが適当じゃないかというものを指摘してくれた。
それについて早速、プログラミングすることにした。計算は研究室にあるGPGPUを搭載した大型のパソコンで行うことにした。パソコンとは言えGPGPUボードを4枚も搭載した巨大なPCである。速度は倍精度で2テラフロップスも出る。メモリも128 GBも搭載している化け物マシンだ。一昔前のスパコンをはるかに凌駕するPCである。プログラミングはC++で行ったが、 GPGPUを使う部分はCUDA言語で書かなければならない。これは非常に面倒なのだがアテナが全て考えてくれた。変数の名前やプログラムの組み方に関しては、アテナが適切な案を提示してくれた。それに同意すると、目の前にさらさらとプログラムが現れた。それを私がコンピュータに入力すればいいだけだ。しかし研究は私がやったと他人に納得させるために、入力は人の見ているところでやった方がいいとアテナは示唆した。
そこで私はくたくたに疲れていたけれども、気力を振り絞って研究室に行った。研究室には先生はいなかったが、大学院生たちが何人か残っていた。私は自分の机の前に座り、自分のコンピュータ端末に向かいキーボードをカチャカチャ叩いてプログラミングを始めた。コードは目の前の空間に浮かんでいるので、それを読んで打ち込めばいいだけだ。極めて楽だ。私は音楽を聴いているふりをして、イヤホンをつけてアテナの指示を聞いた。アテナの声は聞こえるのだが、私が彼女に話しかけることはできない。そんなことをすると、ブツブツ独り言を言っているように見えるからだ。何か怪しげだと思われてしまう。アテナに話しかけたいときは、トイレに行くか、外に出なければならなかった。あるいはキーボードでチャットするのだ。不便極まりない。
それでもなんとか2時間ほどで入力は完成した。そこで早速テスト計算をしてみた。 1発で動いた。奇跡的だ。自分がコーディングをする場合は、何十回、何百回とデバッグをしなければならない。それが一遍で通るとは奇跡だ。計算結果の可視化もやってみた。計算結果が画面上に動画として現れた。これも奇跡だ。私がやったら、こんな簡単には可視化できない。それこそ何ヶ月もかかる。それが半日でできたのだ。私はアテナの指示に従い、一晩かけて計算することにした。計算パラメーターを入力して、プログラムを動かせてから研究室を出た。私は疲れはてて下宿にたどり着いた。私は夕食も取らずに、ベッドに倒れこんでしまった。そしてそのまま夢も見ずに次の朝まで寝た。
「森博士、朝だよ、起きて、起きて」とビーナスが耳元でささやいた。
私はメガネもとらずに寝ていたのだ。
「早速研究室に行って結果を見なければならないでしょ。早く準備をしなさい」とビーナスが言った。
私はトイレに行った後、顔を洗いヒゲを剃りシャワーも浴びた。女神様が私の体臭を感じるかどうかは知らないけれども、一応レディの前では清潔にしておかなければ。私は早速、パンとチーズとコーヒーの簡単な朝食を取った。ビーナスは拡張現実上の存在だけだから、さすがに朝食の準備はしてくれなかった。もっとも女神様に朝食の準備をさせるなど罰当たりだが。
私はメガネをかけたまま、大学まで歩いていった。その間、近くに人がいない時は、ビーナスとたわいもない話をした。楽しかった。こんなに美しい女性と親しく話す事は、生まれて初めての経験だ。やがて大学に着くと、ビーナスはアテナにバトンタッチするといった。そして眼前にアテナが現れた。研究室にはまだ誰も来ていなかった。大学院生たちは、夜型が多いので、早朝に来る事は無いのだ。彼らが来るまでは、私はアテナと話をすることができる。私は昨日走らせたプログラムを調べるために大型のPCの前に行った。計算は終了していた。そこで計算結果を早速、動画として可視化してみた。見事だ。こんな素晴らしい計算が、たった1日でできるなんて奇跡的だ。アテナは別のパラメーターの場合も計算しようと提案した。私は新しいパラメーターを入力して、計算を開始した。私は机に戻り今後の計画についてアテナと議論した。
「計算は今日一日と、明日の朝までやりましょう。結果は予想できるので、これから論文を書き始めましょう」とアテナが提案した。
「えっ、もう論文を書くのですか?いくらなんでも早すぎませんか? 」私が聞いた。
「結果の図と議論の部分は空けておけばいいの。イントロダクションや計算法などは今からでも充分に書けるでしょう」とアテナはきっぱり言った。
私は大学院生が来るまでの間、アテナと色々話し合って論文を書き進めた。アテナは参考になりそうな論文をいくつも目の前に示してくれた。英語ネイティブの論文だけを参考にした。論文の書き方などは、どれも似たりよったりだから、適切な文章の候補は幾つか見つかる。それを適当にコピペする。もちろん長くコピペするのは具合悪いし、短くても完全に同じにするのも具合悪いので、適当に書き換える。そもそも言葉というのは、真似から始まる。子供はお母さんたちの言葉を聞いて、それをコピペすることにより言語を学習するわけだ。文章も同じことだ。だからコピペはまったくダメだというと、何も書けなくなる。しかし参考の文を見ながら書くのではなく、自分の内から出てくる文章をかければ、それがベストだと、アテナはいった。
「森君は英国に3年もいたのだから、英語は堪能ね。でもネイティブの英語にはまだ遠いわね。あなたがナノボットを飲めば、私たちがあなたを英語だけでなく、あらゆる分野で徹底的に教育し直してあげるわ」
「ナノボットを飲むとどうなるのです?」と私は興味をひかれて聞いた。
「ナノボットを飲むと、あなたの時間がとても長くなるの」とアテナは不思議なことを言った。
「どういうことですか? 相対論効果を使うのですか?」
「相対論は関係ないわ。ウラシマ効果みたいに時間を遅くするのではなく、速くするのよ。我々の技術を使えば、例えば、あなたの物理的な1日が心理的には1年になるの。あなたが寝ると、夢の中で仮想の1年を過ごすの。そして夢の1年が経つと、現実の次の日の朝に目覚めるのよ。そしてその夢の1年間にあなたはたくさんのことを学ぶのよ。10日経つと、あなたは10年間生きたのと同じことになるの。1月だと30年よ。1年だと、なんと365年よ。すごいでしょう」とアテナは言った。
「それは素晴らしいですね。でもどうしてそんなことが可能なのです。1年間に学べることは非常に多いので、とても1日では私の生身の頭は記憶できないでしょうに」と私は疑問に思ったことを言った。
「あなたの脳細胞と、我々のスーパーコンピュータがナノボット経由で接続されるの。そしてあなたのニューロン間のシナプス結合は全てコンピュータの中で再現されるの。つまりあなたの意識がコンピュータにマインドアップロードされるわけね。コンピューの速さを人間の意識の速さの365倍にすると、1日が1年になるわけ。もっとも寝ている時間を8時間とすると、それを1年にするには365×3倍にする必要があるわ。1100倍程度ね」とアテナ。
「それはすごいですね。でももっと速くできるでしょう」と私。
「いくらでも速くできるけど、一晩寝たらそれが100年相当というのは、行き過ぎでしょう。1年が良いところだわ。それでも昨日のことをしっかりと思い出して復習してから目覚めないとね。じゃないと、昨日のことも忘れたのかと言われるわ」とアテナ。
「なるほど」
「あなたが寝ている間に夢の中で学んで記憶が増えて、コンピュータの中のシナプス結合が変わると、ナノボットがあなたの生身のシナプス結合を変えるのよ。そうしたらあなたは翌朝目覚めた時には、寝ている間に学んだことを全て覚えていることになるの。あなたの生身の意識とコンピュータ上の意識は連続なの」とアテナ。
「なるほど、すばらしい。しかし学問のような情報だけの世界は良いとして、スポーツや、ピアノなどの弾き方などはどうなるのです?」
「それも簡単よ。寝ている間に例えばある特定のスポーツの技術をマスターしたとするわね。この場合はシナプス結合だけではダメで、筋肉も発達しなければならないわ。ピアノを弾くなどといった、それほど筋力を必要としない場合はいいけど、武術などはかなり筋力強化が必要よ。それは寝ている間だけでは間に合わないので、後からじっくりやるの。たとえ間に合ったとしても、一晩寝て、筋肉隆々になったらおかしいでしょう。人々が疑うわ。だからゆっくりするの。それでも一月も経てば、あなたはあらゆる武術の達人になるはずよ」
「一夜で武術がマスターできるのは、映画マトリックスでネオがカンフーをマスターしたようなものですね」と私。
「語学をマスターするとか、一つの武術をマスターするには一晩よりは長くかかるわ。なんでもベテランになるには1万時間の練習が必要だというから。でも現実世界から見たら、あなたは1月も経てば30年分の経験を積んでいるので、たくさんのことをマスターできるわ」
「すごい!! 私は武芸十八般に通暁したいですね。それから10ヶ国語くらいマスターしたいです。物理、数学、コンピュータ科学などにも精通したいです」と欲張る私。
「いえ、それ以上の分野に通暁できるわよ」
「やりたいです」と私。
「それにはナノボットを飲む必要があるわ」
「うーん」と躊躇する私。
「さらに言えば、消化器や血管、ホルモン系など外から見えない部分は、一夜で改善できるわ。外にバレないから。あなたは外見はともかくとして、体の中は一夜で若帰るのよ」
「素晴らしい!! もう私もあまり若くないから、二十歳代の体に戻りたいです」と私。
「それに夢の中では勉強だけではなくて、研究もできるわ。1年もあればあなた一人でも、最低論文の1編は書けるでしょう。本の一冊も書けるでしょう。私が助ければ、もっと早いわ」
「それは夢のようですね」と私。
「夢のようなじゃなくて、夢なのよ。いろんな夢が実現するのよ。そのためにはナノボットを飲むの」とアテナは言った。
「うーん、素晴らしいけど、まだ決断できません。もう少し時間をください」と私。
「いいわよ、いくらでも考えて。でも1日決断を遅らせると、1年損するのよ」とアテナは痛いことを言った。確かにそうだ。
10時になって大学院生がやってきたので、私たちはおしゃべりをやめて論文書きに専念した。アテナの言葉はイヤホンで聞く。私の言葉はキーボードで打ち込むといつた変則的な会話だが、それでもその日のうちには論文はかなり進んだ。次の朝に、最後の計算結果を受け取って、それで論文の仕上げを行った。夕方までには完成した。
私は研究室の主である夏目胆石教授のところに、結果を持って行って話をした。教授は私の話を聞き、計算結果の動画を見て、ひどく驚いて言った。
「森君、すごいじゃない。なかなか面白い結果だ。来月の研究会で発表して、次の学会でも講演したらどうかね。それから国際会議でも報告だ。論文も書かなければ」
「論文はすでにできています。これです」と私。
「なんと君は手回しがいいのだ。他の助教やポスドク、院生は森君を見習う必要が有る。今晩読んでおくよ。ところでこの論文は僕と共著だよね。君がファーストオーサーでいいから。僕が読んで手直ししたら、修正してから投稿してくれたまえ」と教授は虫の良いことを言った。
私は少し憤慨した。なんで共著なのだ。研究のアイデアを出したのも、研究したのも、論文を書いたのもみんな私なのに。いや正確に言えば、計算したのも、論文を書いたのも、アテナだと言うべきだろう。しかし断じて教授ではない。
メガネの中のアテナは不満そうな私に言った。
「森君、教授の言うとおりにしなさい。たいした問題じゃないわ。論文などこれからいくらでもかけるわ。そうしたら、ここにいる必要はないわ。教授に恩を売って、いい関係を保ったまま、グッドバイよ」とアテナは諭した。
なるほどと思った。そこで教授に言った。
「先生、失礼しました。その原稿には私の名前しか入っていませんが、それは初稿ということで。先生に見ていただいたら、先生の名前を入れます」
私はアテナの言葉に気を良くして、おおらかな気分になった。所詮、夏目教授など大した学者じゃない。私はナノボットを飲めば、ニュートン、アインシュタインを凌ぐ天才になるのだ。今日書いた論文など物の数ではない。私はルンルン気分で研究室を出た。