日本はなぜ植民地にならなかったのか? 軍事大国日本
詳細- 詳細
- 作成日 2019年10月24日(木曜)17:29
- 作者: 松田卓也
先に、現在の世界を支配しているのは欧米、つまり白人であることとその理由を話した。その理由とはヨーロッパが位置するユーラシア大陸は地理的に有利だからである。しかしそれでは、同じユーラシア大陸に位置する中国が、現在の白人の地位にいないのはなぜか? 中国は歴史上ずっと超大国であり先進国であったが、ここ150年で欧米と、さらには日本にしてやられた。その理由は科学革命を起こすことができず、また産業革命を取り入れることができなかったからだ。科挙がその原因の一つであろうという仮説も話した。日本はその点、明治維新で産業革命を取り入れて、先進国への道に乗った。
従来の超大国であったインドは英国の植民地になり、中国もアヘン戦争などで英国やフランスにコテンパンにやられて、香港を取られたりして半植民地状態になった。しかし日本は植民地にならなかった。なぜだろうかというのが今日のテーマである。
実は日本の危機は三度あった。まず唐の時代、7世紀の663年に起きた白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦いである。次が鎌倉時代の1273年と1281年に起きた元寇である。つぎが戦国末期のキリスト教の日本への浸透とそれに対抗する1587年の秀吉によるバテレン追放令である。この三つについて少し解説しよう。
まず白村江の戦いであるが、これは当時の朝鮮をめぐる争いである。朝鮮は現在の北朝鮮あたりに位置する高句麗と、現在の韓国の東半分の新羅、西半分の百済に分かれていた。隋が高句麗を攻めて失敗して、そのため隋は滅亡した。隋の跡を継いだ唐はのちに高句麗を滅ぼした。新羅は唐と組んで百済を滅ぼした。百済は日本の友好国であり、百済の王族が日本に救いを求めた。そこで当時の日本の指導者であった中大兄皇子が朝鮮に4万7千もの大軍を派遣したが、白村江の海戦で大敗した。
つまり日本の第一回目の対外戦争は大敗北したわけである。ちなみに中大兄皇子はのちに天智天皇と呼ばれている。私は京都の山科の御陵(みささぎ)というところに特異点庵という秘密アジトを持っているが、御陵とは天皇の墓のことで、天智天皇陵がそこにある。
第2回目の元寇のことはよく知られている。これは元つまり蒙古と高麗つまり朝鮮、それと南宋つまり中国による日本への侵略だが、これには日本は大勝した。
第3回目はスペインによる日本支配の可能性である。戦国末期の信長、秀吉の時代にイエズス会の宣教師たちが日本に渡り、キリスト教を布教しはじめた。信長も秀吉もそれには好意的で彼らのキリスト教布教を認めた。しかし1587年秀吉は突然、バテレン追放令を出した。その原因にはいろいろある。
まずキリスト教に改宗したキリシタン大名が九州で増えてきた。彼らのひとりは長崎をイエズス会に寄進した。また領民にキリスト教への改宗を強要したり、神社仏閣を破壊したりした。信長と秀吉は仏教徒の一向宗が団結して彼らに対抗していたのに手を焼いていた。キリスト教徒も同じようになるのを恐れたのが一つの理由だ。
またキリシタン大名はポルトガル人を通じて日本人を奴隷として海外に売り飛ばしていた。そのことを知った秀吉は激怒して、人身売買を即刻禁止した。また宣教師にたいして、海外に売り飛ばされた奴隷を連れ戻すように命じた。もちろんそんなことはできなかったであろうが。江戸時代になって伊達政宗の派遣した支倉常長の遣欧使節団は、各地で日本人奴隷を見ることになった。
秀吉にたいしてイエズス会宣教師ガスパル・コレリョは軍艦の大砲を見せて、従わなければスペインの海軍を連れてくるぞと脅した。秀吉は怒ってバテレン追放令を出した。しかしそれもそれほど厳格なものではなかった。
その後サン・フェリペ号というスペイン船が土佐で難破して日本側に援助を求めた。その時に船員が、取り調べの役人に対してキリスト教と植民地化の関係をもらした。スペインは植民地にしたい土地にまずキリスト教の宣教師を派遣して、キリスト教を広める。それからキリスト教徒を使って領主に反抗させる。そこにスペイン軍が介入して相手国を植民地にするというのだ。その船員は世界地図を示してスペインがいかに強大か、日本がいかに小さいかを言い、役人を脅したという。それを聞いた秀吉が激怒するのも当然であろう。
1532年にスペインのピサロが166人の兵士と12丁の鉄砲でインカ帝国の8万の軍隊を破り、インカ帝国を滅ぼした。その時、スペイン側はまず宣教師をインカ皇帝に謁見させて、聖書を手渡した。皇帝はそれを読めないから、地面に投げ捨てた。それを合図にスペイン軍は一斉に攻撃を開始した。つまりキリスト教の宣教師はまさに植民地化の尖兵なのであった。
日本に来た宣教師がスペイン国王に送った手紙では、明国は巨大だから簡単に植民地化できないが、まず小さな日本を植民地にして、その兵隊を使って明を攻めたら良いと進言していたという。
しかし実際問題として当時のスペインが日本を占領できたかは怪しい。なぜならひとつには1588年にスペインは英国への侵攻を試みてアルマダという大艦隊を送ったが大敗している。だから日本に艦隊を派遣する余裕はなかったはずだ。
もう一つ重要な要素がある。鉄砲である。戦国時代末期の当時の日本は鉄砲の数で世界一と言われていたのだ。ここがインカ帝国と決定的に違う。166人の兵士と12丁の鉄砲を持つピサロが日本に攻めきたら、数千、数万丁の鉄砲をもつ数万、数十万の秀吉の軍隊に勝てるわけがない。ピサロの軍は一瞬に壊滅するだろう。当時の日本は軍事大国だったのだ。だからスペインであれポルトガルであれ、正攻法では日本を植民地化できなかった。できるとすれば、当初の目論見通り、日本人をキリスト教に改宗させて領主に反抗させるしか手はなかった。だから秀吉のバテレン追放令は日本を危機から救った賢明な策と言えるだろう。
鉄砲が日本に伝来したのは1543年である。ピサロのインカ攻めの12年後である。ポルトガルの商人が日本に鉄砲を売れば儲かるだろうと中国の商人に言われて、種子島にやってきた。案の定、2丁の鉄砲は高い値段で領主に買い取られた。それに味をしめたポルトガル人がまた鉄砲を売りにきたときは、日本人はすでに鉄砲の技術をマスターして大量生産していたのだ。
1575年の長篠の戦いでは、織田信長は武田軍に対して3000丁の鉄砲を使ったと言われている。鉄砲伝来以後、たった32年でこの普及ぶりである。当時の日本の技術力が相当のものであったことがわかるだろう。
まとめ
明治以前の日本の対外危機の主なものは3度あった。唐・新羅との白村江の戦い、元寇、それに戦国末期のスペイン、ポルトガルによる植民地化の危機である。しかし戦国末期の危機は、現実的ではなかった。当時の日本は世界有数の軍事大国であり、陸戦でスペインやポルトガルが日本を占領することはできなかったであろう。