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ガホールパッチで老眼、近視が治る

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このテーマを選んだ理由は個人的なものだ。近くにあるショッピングセンター内の本屋で「カボール・アイ」という本を見かけた。本のカバーには「1日3分見るだけで視力がぐんぐん良くなる」と書いてある。でもそのカバーの文章は私には眉唾に思えたので、その時は本の中身は見なかった。

もっともガボールという言葉は、我々、人工知能を勉強しているものには馴染みがある。1971年にホログラフィーの研究でノーベル賞を受賞したデニス・ガボール博士の提案するガボール・フィルターである。ガボールパッチとは、ガボール・フィルターに登場する模様だ。そこまでは私は分かったが、その模様をみるだけでなぜ視力が良くなるのか、私には到底理解できなかった。

次の日に私の研究所でいつも開いている人工知能と神経科学の勉強会でこの話題を持ち出したら、研究員の一人がすでに買ったという。そして少し話し合って、私はひらめいた。そうだ、これこそ今、我々が一生懸命研究しているベイズ脳理論の一つの証拠なのだ。そんなことも即座に理解しなかった私の愚かしさが悔しかった。勉強会の終了後、私は即座に本屋に行ってその本を買ったのだった。

さて、そのカボール・アイという本の内容、あるいはガボールパッチとは何かについて説明しよう。ガボール博士の発見したガボール・フィルターという数学理論がある。それである種の縞模様ができる。どんな縞模様かというと、くっきりとした輪郭を持った縞模様ではなくて、ぼやっとしたものだ。縞の本数は様々あり、また縞の傾きも様々ある。

ここで、口で説明してもピンとは来ないだろう。もし興味があればガボールパッチという言葉でググるとサンプルがいっぱい出て来る。目が良くなると書いてあるはずだ。YouTubeで探してもガボールパッチの模様が出て来る。さらにはiPhoneなどのスマホアプリもある。

どんな効用があるか。それは老眼や近視の人が、その模様をそれこそ1日3分間ほど見る練習をするだけで、視力が良くなるというのだ。実際に米国では実験で成果が出ているという。普通、近視を直そうとするとレーシック手術などがあるが、目を手術するなど怖いだろう。ところがガボールパッチは、そんな手術をするのではなく、単に模様を見る練習をするだけで良いという。実に簡単な話だ。

問題はこんな簡単なことでなぜ視力が向上するのか。そこには脳と視覚に関する深い理論があるのだ。その話は極めて深遠な理論なのだが、簡単に説明しよう。

目でものを見るとき、目の網膜に映った像は神経を通して大脳の視覚野に送られる。視覚野は目とは反対側の後頭部にある。網膜像はまず視覚第一野というところに送られて、そこで基本的な処理がなされる。つぎにその情報は視覚第二野に送られる。こうして階層的に処理して、最終的に側頭部で見ているものが猫だとか字だとか花だとかが認識される。

視覚第一野では何をしているかというと、像を小さく分けて、その部分部分の輪郭線が認識される。輪郭線が水平だとか、右に30度傾いているとかだ。ここでカボールパッチが登場する。要するに視覚第一野で輪郭線を認識するときにガボール・フィルターが使われているのだ。という程度で、ここでは話を止めよう。それ以上言っても混乱するだけだ。要するに脳の視覚第一野では、例の本に出て来るガボールパッチの縞模様を見ているということだ。

ここからが深いベイズ脳理論の話に入る。人がものを見るというのは、たんに網膜に映った画像を視覚野に送り、そこで見えるという簡単な話ではない。情報が目の網膜から視覚第一野におくられ、そこで基本的な処理が施され、さらに高次の視覚野におくられるという話をした。このような情報の流れをボトムアップあるいはフィードフォワードの情報という。しかしボトムアップ情報だけではものの正体は判断できない。逆向きの情報の流れ、つまりトップダウンとかフィードバック情報も必要なのだ。

以前にも「人間は基本的にバカである」とか「人間は見たいものを見ている」と言った話をしたが、それもベイズ脳理論の話だ。もう少しわかりやすい例で話そう。会社での意思決定のやりかたを考えよう。あなたは中間管理職だ。あなたはセールスの現場からの情報、つまり部下からのボトムアップの情報だけで物事を決めるだろうか。あなたの上役からの情報も当然必要だろう。上役からの情報がトップダウンの情報だ。つまりあなたは部下からのボトムアップの情報と上司からのトップダウンの情報の両方を使って意思決定するだろう。

視覚でも同じことだ。この場合、ボトムアップの情報は当然、網膜からくる情報だ。それではトップダウンの情報とは何か。それは、ものはこう見えるはずだという事前知識である。ものを見るのは、実際の網膜からの情報と、こう見えるはずという事前知識による予測とが掛け合わされて、認識されるのである。

実際、それには様々な証拠がある。人間の目には盲点という部分があり、その部分は見えない。しかし我々は普段は盲点の存在を意識していない。なぜならその見えない部分を脳の上位の階層からくる事前知識で補っているのだ。つまり実際は見えていないのだが、こう見えるはずだという事前知識の助けを借りて見えない部分を補っている。だから実際の画像が多少ぼやけていても、事前知識で補正することができる。ここでは図を示せないので残念だが、さまざまな錯視現象もこの理屈、つまりベイズ脳理論で説明できる。

さてこの話とガボールパッチとの関係は何か。それはカボールパッチを見て練習するというのは、頭の中の事前知識を強化するのである。つまりガボールパッチを見ても目が実際良くなるわけではない。頭が良くなるのだ。

近視の場合は目のレンズが緊張して遠くに焦点を当てられない。老眼は逆に近くに焦点を合わせられない。しかし近視や老眼で実際に見える像がぼやけていても、本当はこう見えるはずだという事前知識があれば、そのぼやけが補正できるだろう。これがガボールパッチを使うと視力が良くなる理屈だ。とてつもなく巧妙な考えではないか。ガボール博士自身がこの手法を発見したわけではないだろう。だからこの手法を考えついた人に、私は拍手をしたい。

この考え方は視力以外にも応用できないだろうか。私は今、ペン習字に凝っている。しかしなかなか上達しない。癖字は少し練習したぐらいでは一向に良くならない。本屋でペン習字の本をいろいろ眺めていると、こういう文章に出くわした。字を書くというのは、お手本を見て描くというよりは、自分の頭の中にあるお手本、つまり脳内文字を見て書くのである。なるほど脳内文字か。これは要するに事前知識である。この事前知識である脳内文字が歪んでいるから、実際に書く字が下手なのだ。というわけで、字が上手になるには脳内の字に関する事前知識を改善する必要がある。どうすれば良いのかは、まだ暗中模索している。

まとめると、ガボールパッチという、ぼんやりした縞模様を1日3分程度見て練習するだけで、近視や老眼の視力が改善するという。その理由はベイズ脳理論という深い理論が関係している。つまりこの手法は目を鍛えるのではなく、脳を鍛えて結果的には視力を改善するのである。

   
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