最果てのアレクサンドリア
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- 作成日 2021年12月24日(金曜)17:28
- 作者: 松田卓也
アレクサンドリアと聞けば、エジプトにある都市を思い描くであろう。しかしアレクサンドリアとは、古代ギリシャのアレクサンダー大王が、東方遠征の途中につくった町のことで、実はたくさんあるのだ。その数は諸説あるが20いくつもある。なぜ街を作ったかというと、従軍した兵士がけがをしたり退役したりした場合に、彼らを住まわせるためだ。
アレクサンダー大王の軍隊は、はじめは男だけであったが、のちには妻子を同行するようになった。だからアレクサンドリアを作って住んだのは男だけではない。アレクサンドリアはいわばギリシャ人の植民地である。そこにはギリシャ風の神殿や競技場も作られた。
最果てのアレクサンドリアとはアレクサンドリア・エスハテといい、現在のタジキスタンにある。これらの東方にあるアレクサンドリアに、なぜ私が興味を持ったかというと、古代ギリシャ文明がこれらの街を経由して中国に伝わり、最終的には日本にまでその影響が伝わったからだ。例えば、奈良の唐招提寺や法隆寺の円柱の柱は、ギリシャ神殿の柱の形式エンタシスをまねているという。
ここでアレクサンダー大王のことを少し復習しておこう。アレクサンダー大王は紀元前356年にマケドニア王ピリッポス二世の子供として生まれ、父が暗殺されて20歳で王位を継いだ。そしてギリシャを統一したのちに、紀元前334年に当時の世界最大の帝国であったアケメネス朝ペルシャに攻め込んだ。というのも、それ以前にペルシャ帝国がギリシャに何度か攻め込んだので、その仕返しであろう。
古代ペルシャ帝国は、西はエジプトから東はインド近くまで広がる広大な版図をかかえた人類史上初の世界帝国であった。現代の地図で言えば、中心はイランで、西はエジプト、東はアフガニスタン、パキスタンまで広がる広大な帝国であった。
アレクサンダー大王は、ペルシャ帝国に攻め込み、イッソスの戦いやガウガメラの戦いをへて、ペルシャ皇帝のダレイオス三世を打ち破り、ペルシャ帝国を制圧した。その後、ペルシャ帝国内を制圧して回り、最終的には紀元前326年にインドまで攻め込んだ。アレクサンダー大王が30歳のころだ。しかしそこで部下の反抗に会い、それ以上進むのをあきらめた。その後、首都にする計画だったバビロンに戻り、そこで32歳の若さで病死した。
このへんの話はオリバー・ストーン監督による2004年のハリウッド映画「アレキサンダー」に、比較的史実に忠実に描写されている。主役のアレクサンダーはコリン・ファレルで、母のオリンピアスはアンジェリーナ・ジェリーである。私はこの映画が好きで、DVDを買って何度か見直した。
さて今回の話の主題は最果てのアレクサンドリアである。それはアレクサンドリア・エスハテといい、現在のタジキスタンのフェルガナ盆地にある。紀元前329年8月に建設された。アレクサンダー大王のマケドニア帝国の中央アジアにおける領土としては最北端に当たる。その町はシルダリア川の南岸に建設された。ギリシャの都市であるから、そこにはギリシャ風の神殿や競技場が作られたことであろう。
この都市は地元のソグディアナの諸部族に周囲を囲まれていた。最も近い味方の都市である、現在のアフガニスタンにあるアレクサンドリア・オクシアナまで300キロメートルもある。だから何かあったときに、救援を呼ぶことができない。そこでその都市を築いたギリシャ人たちはわずか20日間で6キロメートルにも及ぶ城壁を作ったという。
その後、アレクサンドリア・エスハテの住民は周囲の先住民と何度も衝突を繰り返した。紀元前250年ころには、そこから南のほうのバクトリアにギリシャ人が築いたグレコ・バクトリア王国と密接な関係を結んだ。アレクサンドリア・エスハテはその後、中国で「偉大なイオニア人」または大宛(だいおん、たいあん)といわれた国がそれにあたるらしい。
アレクサンドリア・エスハテから東に400キロメートルほど行ったところには、現在の中国の新疆ウイグル自治区のタリム盆地がある。当時はそのあたりには、ホータン、烏孫、大月氏といった王国があった。紀元前200年ころには中国との交易が始まったようだ。
紀元前129年ころには前漢の武帝が送った張騫がこのあたりにやってきた。漢の武帝は敵対関係にあった匈奴を討つために、大月氏国と同盟を結ぼうと、張騫を派遣したのだ。大月氏は匈奴に攻められて国をうつしたのだ。張騫は大宛について、そこの人の案内で大月氏国に行った。しかし大月氏はその時は、移住先が気に入っていて、もはや匈奴と争う気はなかった。それで張騫はむなしく漢に帰ったのだが、そのことでこのあたりの地理が明らかになった。
やがて漢と大宛は国交を結んだ。武帝は大宛には汗血馬とよばれる名馬がいることを知り、それが欲しくなった。騎馬民族の匈奴と戦うためだ。そこで使節を送り、その馬を買おうとしたが、大宛側は武帝の足元を見て断った。どうしてもその馬が欲しい武帝は紀元前102年に大軍を送ったが、一度目は失敗した。それでさらに大軍を送り、二度目で勝利した。これを汗血馬戦争という。というように、アレクサンドリア・エスハテは歴史好きの好奇心をそそるのである。
アレクサンドリアとは古代ギリシャのアレクサンダー大王が東方遠征の途中で作った町である。現在までにそのままの名前で残っているのはエジプトのアレクサンドリアだけであるが、本当はその他に20近くもあったのだ。ようするにアレクサンドリアはギリシャ人の植民都市であったのだ。その中でも最果てのアレクサンドリアであるアレクサンドリア・エスハテはアレクサンダー帝国の最北端にあたる。その町にすむギリシャ人たちは、のちに中国と関係するようになる。このようにして、ギリシャ文明が東に伝わり、最終的には日本にまで影響を及ぼした。