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刀伊の入寇

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明治以前に日本が海外出兵したのは3回しかなく、最初は5世紀、朝鮮半島の高句麗との戦い、2回目がさきに紹介した7世紀の白村江(はくすきのえ)の戦いである。この戦いで日本は唐と新羅の連合軍に惨敗した。三回目が16世紀の秀吉の朝鮮出兵である。いずれも朝鮮半島で戦っている。

逆に大々的に侵攻されたのは、今回取り上げる11世紀の平安時代の刀伊(とい)の入寇と、13世紀の鎌倉時代の元寇つまり蒙古襲来である。元寇については別に取り上げる。

今回は刀伊の入寇を取り上げるが、これを知っている人はあまりいないと思う。11世紀の平安時代、藤原道長が権力をふるっていた時代である。清少納言や紫式部が活躍した時代だと言っておこう。

平安時代の半ばの1019年に、現在のウラジオストックあたりに住む女真族という野蛮人の海賊の大軍が、対馬、壱岐と北九州を襲い、人々を殺し、捕虜にして連れ去り、牛や馬を食ってしまったというショッキングな事件だ。それ以前からも、朝鮮半島の新羅や10世紀にその後を継いだ高麗からの海賊が対馬、壱岐、北九州を襲う事件はあったが、どれも小規模なものであった。それに比べて刀伊の入寇は非常に大規模な侵略であった。

刀伊とは高麗語で東の夷狄(いてき)という意味の東夷を日本語にあてたものだ。つまり東に住む野蛮人という意味だ。刀伊の入寇の当初は敵の正体が分からなかったのだが、のちの調査で女真族であることがわかった。女真族は後の12世紀には中国で金という国をたて、17世紀には清をたてた民族である。当時の女真族は現在のロシアのウラジオストックあたりの沿海州に住む未開の民族であった。

事件の経緯はこうだ。1019年の3月27日、現在の暦では5月4日に、50隻の船に乗った3000人の海賊が対馬に襲来した。そこでは36人が殺され、346人が拉致された。当時対馬を治めていた対馬の守の大春日遠春(おおかすがとおはる)は島から脱出して、九州の博多にある太宰府にそのことを報告した。

次に賊は壱岐を襲った。壱岐の守の藤原理忠(まさただ)は147人の兵を率いて戦ったが、3000人の大軍には敵わず藤原理忠は殺された。次に賊は国立の寺院である島分寺を襲った。寺の僧侶は島民を組織して戦って、三度まで敵を撃退したが、僧侶一人を除いて全滅した。逃げ延びた僧侶は九州に渡り太宰府に事の次第を報告した。

その報告によれば敵の船は長さが15メートル程度で、櫂が30-40あり、50-60人が乗っている。人ごとに盾を持ち、前陣のものは鉾、次陣のものは太刀を持ち、その次のものは弓を持っている。10-20隊が山野を駆け巡り、牛馬や犬を食う。老人児童は全て殺し、男女を拉致し、穀物を奪う。

壱岐の損害は殺された人数が148人、拉致されたものが239人、燃やされた家は45軒、食われた牛馬は189頭で、生き残ったのは35人であった。

対馬、壱岐をほぼ全滅させた賊はその後、北九州に攻め寄せた。賊は博多にある警護所という防衛施設を攻撃したが、太宰府の実質的な長官であった太宰の権帥(ごんのそち)の藤原隆家は兵士を率いて戦い、撃退した。博多上陸に失敗した賊は松浦郡を襲ったが、そこでも地元の武士に撃退され退却し、対馬を再び襲ったあと、朝鮮半島に撤退した。北九州の被害は三箇所で殺されたもの180名、拉致されたもの911 人、食われた牛馬は107匹であった。

太宰府では、逐次報告を京都の朝廷に飛脚で伝えた。今日、刀伊の入寇の詳細がわかっているのは、その報告を聞いて書いた公家の日記による。

事の次第は先に話した通りだが、ここでは逸話を紹介しよう。まず太宰の権帥であった藤原道隆という人物だが、藤原道長の甥という身分の高い貴族だ。そんな貴族がどうして、賊と戦ったのか。彼は公家でありながら武芸に優れていたのだ。それが地方の役所に過ぎない太宰府に行ったのには色々わけがある。

藤原隆家の兄の伊周(これちか)という人物がいた。伊周は藤原道長と権力闘争をしていた。伊周は道長と口論をして、部下同士が殺し合いをするまでにいたっていた。ところが伊周は長徳の変という馬鹿馬鹿しい事件を起こして、権力闘争に敗れたのだ。どんな事件かというと、先の天皇であった花山(かざん)法王と女のことで争ったのだ。その喧嘩のときに弟の藤原隆家が法王に矢を射かけて袖を射抜いてしまったのだ。先の天皇に矢を射かけるなどとんでもない話だ。それで伊周は左遷されて太宰府に飛ばされ、藤原隆家も地方に飛ばされた。もっとも、のちに許されて京都に戻ってきたが、藤原道長がしっかりと権力を握っていた。

ところが花山法王の花山だが、地名である。私は京都市の山科区の御陵(みささぎ)というところに、特異点庵と称するオフィスを構えている。そのオフィスの裏山が花山なのである。その頂上には京都大学の花山天文台がある。僧でありながら女たらしの花山法王には親しみがわく。また法王に矢を射かけるなどという大胆な公家である藤原隆家も好きだ。

藤原隆家はあるとき目に尖ったものを刺してしまい、眼病になった。九州には中国の宋から来た眼科の名医がいると聞いて、自分から太宰部に行くことを志願したのだ。そんなわけで、武芸に優れた貴族が太宰の権帥になっていたことは日本にとって幸運なことであった。

次に京都の公家たちがいかにダメかという話である。藤原隆家は刀伊の入寇に関する報告を飛脚で京都にあげていた。初めて報告を受けた朝廷は大混乱に陥った。藤原道長をはじめとする三人の政府首脳は報告を聞いて、あわてて御殿の下に降りて議論を始めたが、それを見ていたある公家は、御殿の下に降りるとはみっともないと批判したという。形式主義もここに極まる。

藤原隆家が、賊の撃退に手柄のあった部下たちに恩賞を与えるように朝廷に要請した。それを審議する会議で、ある公家は、隆家は朝廷から賊を撃退せよと命令されてから賊を撃退したのではないから、恩賞を与えるべきではないという、トンデモな議論を展開した。こんな馬鹿げたことを言った公家とは書家として有名な藤原行成と百人一首で有名な藤原公任(きんとう)である。しかし藤原実資(さねすけ)は、もしそんな理由で恩賞を与えないなら、今後誰も外敵に向かわなくなるだろうという正論を展開して、結果的にはそちらが通った。そもそも京都の公家たちは国防ということにあまり関心を持っていなかった。彼らが関心を持っていたのは、自分の昇進と詩歌、恋愛だけであった。

実は平安時代には国家の常備軍も警察もなかったのだ。死刑制度も廃止されていた。現代の平和愛好家には理想的な国に見えるが、当時の社会が平和だったかというと、とんでもない。都も地方も治安が乱れていた。地方の治安が乱れたからこそ、農民は自衛のために武装して、それが武士になっていくのである。

刀伊の入寇を撃退したのも、国の軍隊ではなく地方の武士たちであった。つまり民間のボランティアである。刀伊の入寇の時の賊は3000人くらいだからそれで対処できたが、のちの蒙古襲来の時のように10万単位で攻められていれば、とても保たなかったであろう。蒙古襲来が起きた鎌倉時代は武士の時代であり、当時の武士は平安時代の貴族と違って、とても乱暴などう猛な人たちであった。それが結果的には良かったことになる。

平安時代の半ばの1019年に刀伊の入寇といわれる女真族の海賊の日本侵略があった。賊は対馬、壱岐の人々を惨殺して、拉致した。太宰の権帥であった藤原道隆が賊を追い払った。京都の公家たちは全く無策であった。平安時代は常備軍も警察も死刑もなく、そのために平和な時代ではなかった。 

   
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