機械との競争: 技術革新による失業の第3波を人類は乗り越えられるか
最近の人工知能とロボットの目覚ましい進歩は、普通のオフィス労働者やサービス従事者から仕事を奪っていくであろう。これは産業革命により、多くの農民が失業したこと、60年代以降のオートメーションの発達で、多くの工場労働者が失業したことに次ぐ、第三の失業の波である。この第三の失業の波は、高等教育を受けた知的労働者の多くが失業する可能性を秘めている。はたして、この第三の失業の波を人類社会は乗り越えられるだろうか。
機械との競争
最近Facebookの友人を通して興味ある議論を知った。「ITは雇用を生まずに所得格差だけを広げるのか?米国の失業率が回復しない本当の理由」安藤茂彌、DIAMOND IT&ビジネス、という記事である。 内容はMITのスローン経営学大学院デジタル・ビジネス・センターのエリック・ブラインジョルフソンとアンドリュー・マカフィーの講演のまとめである。
彼らはRace Against the Machine (機械との競争) by Eric Brynjolfsson and Andrew McAfeeという著書があり、講演はその本の内容にそっている。
その本の日本語の書評はここにある。英文のエコノミストの書評はここを参照のこと。
著者の主張の要点は上記の記事に要領よくまとめられているが、ここではさらに本を元に、私なりにまとめてみよう。
まず第1章についてである。 米国ではリーマンショック以降、失業が深刻化していて、回復のめどが立っていない。その理由として3つの説がある。1)景気循環説、2)景気停滞説、3)仕事の終焉説。1の景気循環説にたてば、失業率が高いことは取り立てて珍しいことではなく、景気が回復しさえすれば解決する問題だとしている。ノーベル賞学者のポール・クルーグマンがこの立場である。
2の景気停滞説は、現在の景気停滞は、たんなる景気循環ではなく、構造的なものだという。ところがその理由は、技術革新の停滞によるものだという。そのために生産性が向上せず、失業率が高止まりしているのだという。この説の変形として、グローバリゼーション説がある。グローバリゼーションの結果、先進国の仕事が中国やインドなどの発展途上国に流れたので、米国での失業率があがったのだとする。
3番目の立場は、2とは逆に技術革新はありすぎて、人間がする仕事がなくなってきたのだという主張である。ジェレミイ・リフキンの1995年の本で有名になった考えである。この立場はすでにケインズ、ドラッカー、レオンチェフたちによっても唱えられてきたものである。現在はコンピュータの発達により、工場労働者ばかりでなく、平均的なオフィス労働者の仕事もどんどんなくなってきている。このことは銀行のATMや空港の自動改札などを見れば明らかに思える。それは産業革命で、馬が必要なくなったのと同じことだという。しかしこの説、とくにコンピュータの重要性については、米国の経済学界では主流にはなっていない。この点を著者はついているのである。
最近の統計によれば、米国の景気は回復している。(実際、豪邸、ヨット、クルーズなどの贅沢産業は大盛況であることが、ニューヨークタイムズの記事にある。松田注)。それにもかかわらず、失業率が高止まりしているのである。 だから今回の失業率の高止まりに関して、従来成立した景気循環説が成り立たないことは、明らかであろう。
景気停滞説に対しては、著者の主張は「景気停滞論者は技術革新が遅くなったのが原因だとしている。しかし我々は逆に技術革新が速すぎて、多くの人々が取り残されているのだ。要するに、多くの労働者は、機械との競争に敗れたのである」というものだ。実際、最近のコンピュータのハードウェア、ソフトウェア、ネットワークの進歩は驚くべきものであるが、個人、組織、政策、人々の考え方がそれについて行けていないのだという。
その点では著者は仕事の終焉論者に同意するが、著者は彼らほどには悲観的ではなく、もっと楽観的である。著者の主張のポイントは、失業問題の議論にコンピュータの進歩を考慮に入れるべきだという点だ。「問題の根源は人類が大恐慌や大停滞状態にあるのではなく、大変革の時代の始まりにいるということだ」。
第2章ではコンピュータ、特に人工知能の進歩の具体的な例が語られる。私はこのブログにおいて、それらの例をたくさん紹介してきた。ここでは一つだけ、Googleによる自動車の自動運転システムを紹介しよう。
2004年にある経済学者は「労働の新しい分類」という本を書き、コンピュータでできる仕事と、どうしても人間が必要な労働を分類した。その本の著者は、例えば自動車の運転はきわめて複雑なので、当面は人間がコンピュータに取って代わられることはないと論じた。ところがその本の出版後5年でGoogleはそれをやり遂げたのである。それに関しては次のTED の講演を見ていただきたい。日本語の字幕もあるし、日本語の全訳もある。
この章ではそのほかに、IBMのスーパーコンピュータ、ワトソンがジェパディ(Jeopardy)というクイズで人間のチャンピオンに勝った話も紹介されている。ワトソンに関しては、私が既に紹介している。
コンピュータで重要な法則としてムーアの法則がある。これは集積回路の集積度が、18ヶ月で倍増するというものであるが、レイ・カーツワイルは、集積回路にとどまらず、他のいろんな技術が加速度的に進歩すると主張している。この進歩はハードウエアだけにとどまらず、ソフトウエアの進歩もある。例えばある最適化問題に関して、その速さが1988-2003年で4300万倍になったが、その間に「CPU速度は1000倍速くなったが、アルゴリズムの進歩による高速化は43,000倍もあった」
一般的にいって汎用目的技術(General Purpose Technology=GPT)の経済への影響は大きい。GPTの例としては、まず蒸気機関があり、ついで電気、つぎに内燃機関があり、そして現在はコンピュータである。GPTは産業構造も変えてしまうような技術である。
コンピュータは現代のGPTであり、それとネットワークを合わせた情報通信技術(ICT)は、単にハイテク産業を促進するだけでなく、あらゆる産業に浸透して、大きな影響力を及ぼし、人々から職を奪っていく。もっとも当面は医者とか弁護士のよう、まだ人間が強い分野もあるが、しかしワトソンは近い将来に医者の役割を果たすようになるだろうし、弁護士は既に電子開示(e-discovery)の技術の発展で、だんだんと職を奪われつつある。
第3章では著者は「創造的破壊:加速する技術と消滅する仕事」と題して、技術進歩に伴う失業について論じる。此の概念はすでにケインズにより1930年に提案されたものではあるが、近年はコンピュータの発達がそれを加速している。
経済学的にいえば、コンピュータの発達は生産性を加速するので、富も増大するはずである。実際、ICTの発達に伴って米国ではGDPは増えているので、一人当たり所得は増大している。ところが所得の中央値は増大していないどころか、むしろ減少している。その理由は、所得格差の増大にある。つまり一部の金持ちがますます金持ちになり、中流の人は金持ちになるどころか、よくて現状維持、実際はむしろ貧しくなっている。(例えばニューヨークタイムズのこの記事を参照)
この現象の説明として、例えば、50人の建設労働者が集うバーがあったと想像する。そこにビル・ゲイツが入って来たとすると、そのバーにいる人々の平均所得は10億ドルに急増するのだが、中央値は変化しない。つまり平均所得が増えたからといって、人々が金持ちになった訳ではないのである。実際、米国の統計では、1983-2009年の間に富は倍増したのだが、その増加分は上位20%の家庭に吸収されてしまっている。残りの80%の人々はむしろ貧しくなっている。さらに富の増大の80%は上位5%の家庭、40%の部分は上位1%の家庭に配分されているのである。
ICTの進歩は失業を増やしているのだが、それはすでに雇用されている労働者をレイオフするというよりは、むしろ新規雇用の停止という形で現れている。技術が進歩したからといって、全員が幸福になることはない。
現代の競争社会においては勝ち組と負け組が現れる。それでは誰が勝ち組になり、誰が負け組になるか。それは3つの分類で説明できる。
まずは熟練労働者対非熟練労働者である。現代の熟練労働者とは高度なプログラミング、マネージメント、マーケティングなどができる人々のことである。それは結局は教育の問題である。米国の調査では、学歴による所得の差は大きい。高卒や高校中退は最低で、大学院卒が最も高い。
第二はスーパースターとそれ以外の差である。たとえば音楽家、運動選手などを考えても、いわゆるスーパースターの所得は非常に大きく、それ以外は少ない。その理由はICTの発達による。音楽家を考えてみればわかるのだが、昔は演奏会で直接聞くしかなかったので、音楽家の所得の差も少なかった。しかしCDやiPod、iTuneの時代になると、人々の関心は一部のスーパースターに集まり、人気ある音楽家の所得が圧倒的になるのだ。米国では会社のCEOの所得も、一般労働者と比べると桁違いになっている。
第三は資本家と労働者の差である。これは古典的な差であるのだが、現代は資本家の力が非常に強くなっている。実際、資本家は儲かっているのだが、その儲けを労働者に配分するのではなく、自分と株主で分け合い、また雇用を増やすのではなく、ロボットやコンピュータ、ソフトなどの生産材に投入している。例えば中国でiPhone,iPadを生産している台湾の会社Foxconnは、今後3年間で100万台のロボットを導入すると発表している。そのことは中国の労働者の失業として現れるであろう。
しかし、そのような格差拡大は実は会社や資本家にとっても良いことではない。なぜなら彼らは製品を作って、それを消費者に売りつけて、利益を得るのだ。ところが消費者の多くは労働者であるから、彼らが失業したり、貧しくなったりすると、商品を買わなくなり、資本家も儲からなくなるのである。これは資本主義の矛盾である。
現在、人々のもつ技術と所得の関係にU型カーブというものが観察されている。非常に技術をもつ個人に対する需要は増大しているが、平均的な技術しか持たない中間層の所得は減少している。ところが興味あることは、低位の技術しか持たない人々は、それほど被害を被っていない。具体的にいえば、美容師、庭師、介護士などである。その理由はこれらの仕事が、当面のところ、機械化しにくいからである。
第4章で著者はその処方について述べる。彼らの考え方を端的に言えば、機械との競争(Race against the machine)ではなく、機械との協調(Race with the machine)であるという。実際、コンピュータの能力が強い分野でコンピュータと競争して勝てる訳がない。たとえばチェスを考える。これは既にIBMのスーパーコンピュータがチェスの世界チャンピオンに勝っているのである。現在ではチェスがもっとも強いのはだれか。もちろん人間ではない。かといって、コンピュータでもない。コンピュータと人間のチームだという。強いのは「弱い人間とコンピュータと良い手法」の組み合わせであり、それは「強い人間とコンピュータとまずい手法」より強い。
失業の解決策として、著者はアメリカ人らしく、起業家になることを勧める。実際、Google, Facebook, Apple, Amazonなどはその成功例である。これらは実際、さらに多くの仕事を産み出した。
第二の方法は人的資源への投資である。それは教育である。米国の教育方法を改善しなければならない。ICT技術を使って教育を改善しなければならない。その例としてスタンフォード大学は人工知能に関するコースをネットを通じて提供している。それは58,000名の学生を集めた。2011年のコースは終了したが、ビデオで見ることが出来る。これには字幕も付いている。
また小中高のコース(米国ではK-12とよぶ)として、カーン・アカデミー(Khan academy)があり、3,300ものコースがビデオで用意されている。数学だけでも、膨大な数の講義がある。(英語の字幕はある)。使い方としては、子供たちは家でこのビデオを見て、学校でその宿題を解く。分からないところを先生が巡回して教える。カーン・アカデミーのホームページを見ると、単に小中高にとどまらず、大学、大学院クラスのコースもある。
次のビデオはカーン自身のTEDトークである(日本語字幕あり)。ちなみに司会はマイクロソフトの創始者であるビル・ゲイツである。カーンはバングラデシュの出身で、以前はヘッジファンドのマネジャーをしていたという。いとこに数学を教えるのにYouTubeを使ったら、それが非常に評判が良かったので、現在の事業を始めたと言う。
もっとも、上記の手法だけで失業問題が解決する訳ではない。やはり勝ち組と負け組が発生するだろう。
機械の導入で生産性が上がるのだから、究極的には人々は働かなくても食って行けることになる。共産主義的、社会主義的ユートピアを信じる人は、機械に全部仕事をさせて、人々はただ遊んでいれば良いと主張する。そもそも世界が今更、共産主義に戻るとは思えない。また、仕事をしないで金だけもらうのでは、人々はやっていけない。人々には自尊心がある。自分で仕事をして稼いで食べることが重要なのだ。
著者はそこで19の提案をしている。それは教育の改良、高度の技術を持った移民の奨励、起業の奨励、交通・通信への投資、研究への投資の増大、雇用に関する規制の緩和、不要な政府補助の撤廃(とくに金融業への)、特許制度の改革、著作権の制限、などである。
アマゾンの商売と失業
以上で機械との競争(Race Against the Machine)について紹介した。この本を私はアメリカのアマゾンで3.99ドルでKindle版を買い、即座にダウンロードして読み始めた。この事実からして、本書に述べられている技術革新による失業のひとつの典型例である。
まず紙の本を経由していないと言うことは、製本業が必要ないし、本の取り次ぎも、本屋も必要ないということだ。さらにデジタル版だから、アマゾンの物流センターも必要ないし、佐川急便も必要ない。アマゾンが機械化、合理化したせいで、消費者には便利で安価になったが、その裏側では、以上の産業に従事する人たちが必要なくなったと言う訳だ。これが正にICTの技術革新による失業である。
本の値段が4ドル弱であるということは、1ドルが80円として、320円程度ということで、画期的に安い。それはデジタル版だからだ。ペーパーバック版は14.99ドル、つまり1200円程度である。普通、この程度のページ数の本(76ページ)なら、その程度の値段であろう。デジタル化は消費者に取っては福音である。
2012年夏の現在はKindleで読める本はほとんどが洋書のみであるので、まだそれほど日本の本屋さんには関係ないであろう。しかし、もうすぐ日本でもデジタル出版が始まる。実際、私の著書である「なっとくする相対性理論」はデジタル版にする契約を、講談社と既に結んだ。ちなみにその本の定価は2,835円であるが、デジタル化でこれがどの程度の値段になるかは、まだ著者の私も知らない。
まだデジタル版の書籍に慣れない人は多い。ある人はしおりが挟めないと反論した。それはKindleを知らないからそういうので、デジタルなしおりは挟めるのである。またその人は書き込みが出来ないと反論した。しかし書き込みも出来るのである。そこで、本のあの量感が好きなのだと言った。それは個人の好みの問題で、反論することでは無いが、量感があると言うことはかさばると言うことだ。家が大きくていくらでも本が置けると言う人や、蔵書の為だけに、もう一軒家を借りたり、買ったりできるという金持ちの人には関係ない話であろう(実際、私の周りに何人かいるのだ)。しかし家が狭い私は、すでに持っている本も、裁断してスキャナーにかけてデジタル化したいと思っている。本に家を占領されて、寝る場所も無いようでは、主客転倒だと思うからだ。またある人は、本屋でいろんな本をぱらぱら見るのが楽しみだと言う。それは私も認めるが、しかしKindle版の本は第1章がただで読めるのだ。本屋に行くことが楽しみと思うか、おっくうと思うかは、それぞれであろう。私に取っては、デジタル版の本の出現は、それこそグーテンベルク以来の革命であると思う。そして今後確実に、デジタル出版が日本でも普及するであろうと思う。
しかし一方、Kindle版を読んで、その読みにくさ、特に図が小さくて読みにくいなどの問題点は確実に存在する。だから可能なら実際の本の方が良いという意見は、確かにその通りだと思う。だから物理的な紙の本が急速に消滅するとは思わない。しばらくは併存するであろう。しかし例えば、20-30年先に紙の本が出版されているかどうかは、さだかでない。音楽がCD化されたときに、一部のLPレコード愛好家は、CDの欠点を喧伝した。しかし現在では音楽のデジタル化はほとんど完成して、LPレコードはおろか、CDすらiPodやiTuneの発達でなくなろうとしている。時代の進歩というか変化にはあらがえないのだ。
アマゾンの商売は、今や書籍にとどまらず、あらゆるものを販売するオンラインショッピングになっている。私は(紙の)本のほか、コンピュータ関係のガジェットをアマゾン経由で買うことが多い。しかしそれだけでなく、例えば野菜ジュースなどの食料品も買えることが分かった。こんなものは、普段はスーパーで買うのだが、アマゾン経由で買えば、重いものを運ばなくても配達してくれる。ということは、スーパーの従業員の職を奪うことになる。もっとも、佐川急便の需要は増えるのだが。
ところでそのアマゾンの物流センターであるが、これがまたロボット化されようとしている。アマゾンはロボットメーカーのキバを買収したと言うニュースが流れた。キバのロボットは商品の棚のところに取りに行く代わりに、商品の乗った棚を持ってくると言う。そのロボットはオレンジの直方体で、倉庫の中をお互いに衝突せずに走り回る。これで物流センターが自動化され、またもや人間の出番が無くなるのである。
ロボットはあなたの仕事を奪う、しかしそれでもいい:経済崩壊を生き抜いて幸せになる方法
このエッセイで議論している技術革新による失業そのものをテーマにした本が出版された。Robots will steal your job but that’s OK: How to survive the economic collapse and be happyという題の、そのものズバリの本である。著者はフェデリコ・ピストーノ(Federico Pistono)というイタリア出身の若者である。著者はいろんなチャネルで宣伝しまくっている。本の内容は、貧しさと共存する生活をしようと言う提案である。」
本の宣伝にある著者のビデオを見ると分かるのだがいかにも若い。イタリアの大学でコンピュータ科学の学士号を得ただけで、いちやくメディアの先端に躍り出た。いかにも頭の良さそうな若者である。ブログでの説明によると、彼はベローナ大学の数学・物理・自然科学科を卒業後、スタンフォード大学で人工知能と機械学習の勉強を続けている。同時に新聞やブログで、科学、技術、インターネット社会とソーシャル・メディア、人工知能、地球温暖化などを論じている。そしてイタリア、デンマークなどの国でラジオやテレビのインタビューに出演している。
ピストーノの例は、「機械との競争」で述べられた、起業家精神とスーパースターが全部取りをするということの例であろう。この若者は特別なのである。だれでもがまねできるわけではない。
学生の私語とこれからの人生設計
私は同志社大学の文科系学生を対象に科学史や天文学を教えている。200名以上の学生を大教室に詰め込んでの講義である。ここで出くわした問題に学生の私語がある。後ろの方で、私語に熱中している学生がいる。私は教壇で自分の話に熱中しているので、それほど気にならないのだが、まじめで私の話を聞こうとする学生にははなはだ迷惑である。私語をやめるように注意してほしいと、何人もの学生に言われた。そこで私は次のような二つの話をした。
まずは私の講義の値段である。私が講義をして、いくら給料をもらうかと言う話ではなく、学生に取って、この90分の講義を受けるのに、いくらかかっているかと言うことだ。私学の文科系の自宅通学生は4年間で670万円、下宿生で960万円かかるというデータがある。
その費用を4年で割る。また年に30コマ受講するとする(実際はもっと少ない)。さらに一つの科目は15回の講義であるので、それらを計算に入れると、講義1回の値段は自宅生にとっては670/4/30/15=0.37つまり3,700円である。下宿生は5,300円になる。これは最低限で、本当はもっと高い。下手をすれば1万円近くなるであろう。映画の通常料金は1800円で、大学生なら1500円である。ということは、大学の90分の講義は映画2-3本分にあたるのだ。つまり講義を聴かないという選択は、それだけの金を捨てるということに相当するのだと話した。学生たちはこれを聞いて驚いたが、しかしこの話は多分、学生の琴線に響かないであろう。なぜなら、授業料から生活費に至るまで、ほとんど親が出しているからだ。しかし学費や生活費を自分で稼いでいる少数の苦学生には、よく分かる話だ。実際、そのような苦学生の感想も聞いた。
もう一つの話は、ネット上に出た、あるエピソードである。京大の森毅名誉教授が大やけどをしたと言う記事を読んで「ざまぁ見ろ」と思ったと言う記事である。この記事は後に削除されたらしいが、他の人により再掲されている。
その理由はこうだ。森先生はたくさんのエッセイを書いたりテレビに出演したりしていたタレント教授であった。その森先生の書いたエッセイで「ええかげんでいいんや。大学では勉強なとしなくていい。エリートはかってに育つもんだ」という文章を読み、それを真に受けて大学で遊びほうけて勉強しなかった。ところが20年経った現在、そのことを非常に後悔している。自分が勉強の習慣を失い、ダメサラリーマンになって、うだつが上がっていないのは森先生のせいだ。森先生の言葉は地頭のよい1割ほどのエリート学生に適用されるので、地頭の悪い学生は大学で一心不乱に勉強しなければならないのだ。ところが森先生の言葉は、怠惰な人間に「それでいいんだよ」と甘い言葉をかけた。つまり森先生の言葉は悪魔の言葉であったのだ。「地獄への道は善意で敷き詰められている」
この記事に対して、賛否両論があったが、多くはこの著者に対する批判的なものであった。つまり自分の不勉強や努力をしなかったことを他人のせいにしていると言うのだ。あまり批判的なコメントが多かったので、著者は削除したものと思われる。
私がこの話で、私語する学生に伝えたかったメッセージは、「今、私語して勉強しないと、後で後悔するよ」ということであった。それに対する反応として、大学の先生方の講義は、聞くに堪えないもの、また高い金に匹敵する価値のないものも多いというのがあった。それは多分そうであろう。
その議論はそれとして、現在の私は、はたして自分が言ったこと、つまり学生時代に勉強しないと後で苦労するという考えが正しいのだろうかと反問している。もちろん勉強しない方が良いというのではなく、勉強すれば必ず報われるという考えが正しいのかどうかと言う問題である。これは今まで、日本の両親が子供に言って来たことだ。勉強しなさい。勉強しないと、良い学校に入れませんよ。よい学校に入らないと、よい企業に就職できませんよ。よい企業に勤めていないと、よい相手と結婚できませんよ。結婚できなければ、子供が出来ませんよ。この戦後一貫して語られてきた人生モデルは、果たして今でも正しいのであろうか。
昨今の就職難と学生たちの困難な就活を見ていると、一通りまじめに勉強しても、報われる保証は無いということが分かる。また結婚も怪しいことになっている。その問題は別に論じるとして、本エッセイで述べてきたように、ICTの進歩は普通のサラリーマンの職を奪って行くのである。勉強しなくても、一応はサラリーマンにはなれた、先のうだつの上がらないという人も、現在の学生から見れば羨望の対象かもしれない。
特殊能力をつける、スーパースターになる、資本家になる、これらのことは普通の人には不可能か、極めて難しい。起業しなさいといっても、そもそも起業できるようなアイデアを持つ学生は少数だし、ましてや起業して成功する学生はさらに少数であろう。その意味で「機械との競争」に述べられた処方箋は、実は役に立たないのではないだろうか。
正直言って、私には解答はない。
松田卓也(まつだたくや) |
1943年生まれ。宇宙物理学者・理学博士。神戸大学名誉教授、 NPO法人あいんしゅたいん副理事長、同付置基礎科学研究所副所長、中島科学研究所研究員、ジャパン・スケプティックス会長。 1970年、京都大学大学院理学研究科物理学第二専攻博士課程修了。京都大学工学部航空工学科助教授、英国カーディフ大学客員教授、神戸大学理学部地球惑星科学科教授、国立天文台客員教授、日本天文学会理事長などを歴任。主な著書に「これからの宇宙論--宇宙・ブラックホール・知性」 (講談社ブルーバックス) 、 「正負のユートピア-人類の未来に関する一考察」 (岩波書店) 、 「新装版 相対論的宇宙論--ブラックホール・宇宙・超宇宙」 (共著、講談社ブルーバックス) 、 「なっとくする相対性理論」 (共著、講談社) 、 「タイムトラベル超科学読本」 (監修、 PHP研究所)、「2045年問題--コンピュータが人類を超える日」(廣済堂新書)など |