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映画 『エリジウム』

詳細

映画「エリジウム」は、南アフリカ出身のニール・ブロムカンプ監督・脚本による2013年のアメリカ合衆国のSF映画である。主演はマット・デーモン、ジョディ・フォスターだ。

あらすじ

舞台は西暦2145年の地球である。映画の設定では、地球は環境汚染と人口増加により荒廃が進んでいる。そして地球に住む人々は悲惨な生活を送っている。その一方で一握りの富裕層だけは、400キロ上空に浮かぶスペース・コロニー「エリジウム」で豊かな生活を送っている。そこにはどんな病気も一瞬で治す特殊な医療ポットがあり、エリジウムの住民は基本的には不死なのだ。

そんなエリジウムを頭上に臨みながら地上で暮らす主人公マックスは、ある日、働いている工場で放射線を浴びるという事故にあう。そして余命は5日だと宣告される。エリジウムで医療ポットに入るしか助かる道はない。マックスは非合法組織に接触して、エリジウムへの潜入を試みる。そのように不法移民を取り締まるのがジュディ・フォスター扮する冷酷な防衛長官デラコートである。はたしてマックスは助かるか?

映画『エリジウム』は未来の姿か?

今後着実にシンギュラリティに向かっていくが、シンギュラリティ後の世界はどのようなものだろうか? 二つの極端なケースとしてユートピアとディストピアが考えられる。エリジウムはディストピアの一つの姿である。つまり究極の格差拡大した悲惨な世界の一例である。

シンギュラリティ概念の提唱者の一人であるレイ・カーツワイルはシンギュラリティ後の世界をユートピアとして描いている。科学技術の発達により、現在の地球にあるさまざまな困った問題が解決されるという。人々は機械超知能と一体化して、不死の生活を楽しむという。はたしてどちらの世界像が現実的か?

ニール・ブロムカンプ監督と映画「第9地区」

ニール・ブロムカンプ監督は南アフリカ生まれで、後にカナダに移住した。彼が注目を浴びたのは2009年の映画「第9地区」によってである。南アフリカの都市の上空に巨大な宇宙船がやって来た。地球人は戦々恐々とするが、宇宙船は上空に浮かんだままで何ヶ月も何の反応もない。そこで地球人はヘリコプターで宇宙船に行ってみると、その内部は汚れきっていて、汚い宇宙人がうようよしていた。宇宙船を操縦して来た連中は死んだらしく、何もできない宇宙人だけが残されたのだ。多分、棄民なのであろう。

地球人は彼らを第9地区とよぶゲットーに隔離する。宇宙人は地球人に抑圧されて難民生活を送る。宇宙人が地球人に軽蔑、抑圧されるという意表をつくプロットで評判になった映画だ。映画の意図は南アフリカのアパルトヘイト政策に対する批判であろう。

私は「第9地区」をいままでのハリウッド映画にない、ステレオタイプでない斬新なアイデアであると感心した。それは批評家も同じであった。「エリジウム」は基本的にブロムカンプ監督の第2作目であった。だから期待されたのだが、興行的にも批評家的にもそこそこだった。

映画の細部は、科学的に見て突っ込みどころ満載である。例えばスペース・コロニーはドーナツ型であり、それはよいのだが、ドーナツの内側のふちの部分、つまりコロニーの上空が開いているのだ。これでは空気が逃げてしまう。主人公達の乗った宇宙船がそのまま着陸できるためにそうしたのであろうが、ありえない。ドーナツ形コロニーは回転していて、遠心力で擬似重力を発生させている。コロニーの地上部分の重力加速度を地球と同じ1Gにすると、空気の圧力が半減するスケールハイトは数千メートルになるだろう。エベレストの頂上にだって空気はあるのだから。映画のコロニーのドーナツの輪の直径はどうみても数千メートルだ。だから一番上空部も真空ということはなく、空気は残っている。その空気は拡散で宇宙空間に逃げる。計算しないとわからないが、多分、数日でコロニーの空気は無くなるだろう。

『エリジウム』とユヴァル・ノア・ハラリの世界観

さて映画『エリジウム』に戻ろう。私がこの映画を評価するのは、人類の未来のひとつのありうる世界を描いているからだ。この映画の世界観は、私が評価するイスラエルの歴史家ユヴァル・ノア・ハラリの世界観と類似している。ハラリは「サピエンス全史」というベストセラーを書いて、欧米で評判になり600万部も売れたという。

ハラリの次作が「ホモ・デウス」で、これは2018年9月に邦訳が発売された。私は「サピエンス全史」に感心したので、英語版をKindleで買って読んだ。そしてYouTubeにアップされたハラリの講演をほとんど聞いた。そのなかでも最も印象的だったのは、2018年のダボス会議に呼ばれて講演した時のビデオだ。たくさんのバージョンがアップされているが、その一つは荘厳な音楽と背景で見るものを圧倒する。ハラリはまさにキリストやモハメッドに次ぐ現代の預言者のようだ。

ハラリの講演の要旨はシンギュラリティ後の未来の人間は不死になること、いわば神になるということだ。神と人間を分けるものは、死ぬか死なないか(mortal/immortal)という区別である。ハラリ自身は完全な無神論者であり、神は存在せず、未来には人間が神になるという。それが「ホモ・デウス」という本のタイトルの意味だ。ホモとは人間であり、デウスは神だ。

ただし不死になるのは人類全員ではなく、一部のエリートだけだという。その意味で映画「エリジウム」の世界観に近い。エリート以外はどうなるかというと、ハラリによれば不要階級(Useless class)になるという。

ここは映画とは少し違う。ハラリによればシンギュラリティ後はロボットと人工知能の発達により、人間は仕事をしなくてよくなる。仕事をしなくて良いというよりはむしろ、仕事がない。支配層から見れば多くの一般大衆は、政治的にも経済的にまったく不要な階級だというのだ。一方「エリジウム」では、22世紀になっても人々が働いて社会を支えている。エリートは大衆を支配、収奪している。この点では「エリジウム」の世界観は古い。

現代の現実世界でも格差拡大は続いている。特に米国では顕著だ。米国の富裕層の一部は、自分たちだけで運営する独立市を作っている例がある。たとえばサンディ・スプリング市がそうだ。金持ちたちの言い分は、これまでの行政区画では、自分たちの支払った税金が自分たちには戻って来ずに、ほとんどが貧乏人のために使われているという。例えば警察、消防、学校、病院などに税金が使われるが、その大部分は貧乏人の住む地区に使われて、金持ちたちには使われない。

これは不公平だから、自分たちだけで市を作り、市役所、警察、消防、学校も全部自分たちで作る。金持ち地区は犯罪が少ないので、警官の数は減らせる。福祉の事務もないので役所に勤める役人の数も減らせる。結局は税金が安くなる。

しかし一方で金持ちに逃げられた従来の市や郡では、税収が減り学校、警察などの公共サービスが維持できなくなる。このような問題は米国の地方自治に特有の現象で、日本では起きないだろう。なぜなら日本では学校、警察、消防など公共サービスは住民が自分たちで作っているという意識は希薄で、お上から与えられていると考えるからだ。考えだけではなく、実際に地方自治体の権限も国によって大きく制限されている。つまり日本では国の権力が強く、米国では地方自治体の権力も強い。

その意味では「エリジウム」は極めてアメリカ的な映画になっている。つまり現在の米国の格差拡大への批判、警鐘なのだ。映画では民衆の反乱により、エリートの特権が解体される。しかし現実はそう簡単にはいかないだろう。果たして未来はエリートと民衆の戦いになるのか?革命がおきるのか?民衆に勝ち目はあるのか?もし反乱が起きたら、エリートは映画のように宇宙に逃げるのか?「エリジウム」はこのようにいろいろな問いかけを発する映画である。

   
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