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元寇の蒙古軍は船酔いで負けた

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今回も元寇つまり蒙古襲来の話である。蒙古襲来は二度あり、1274年の文永の役と1281年の弘安の役である。文永の役では蒙古と高麗の連合軍に、まず対馬と壱岐が襲われて、その後、九州が襲われた。対馬と壱岐では多勢に無勢で日本側は散々やられたが、九州では日本軍が勝っている。ほぼ完全な勝利である。

通説では神風、つまり台風のおかげだというが、そんなことはない。日本の武士たちの活躍で蒙古軍を撃退したのだ。文永の役では、通説では蒙古・高麗軍は九州に上陸して、その翌日には撤退している。その理由は、よく言われる神風のためではなく、戦いに勝てないと判断したことが大きい。さらに副司令官が負傷したこと、撤退が遅くなると冬の対馬海峡を渡って帰還することが困難になることもある。以前に文永の役の具体的な戦闘状況を述べた。蒙古・高麗連合軍は不甲斐なく負けているのだ。なぜ彼らは勝てなかったか。それは彼らが船酔いでめろめろになっていたからだという説を紹介する。

この説は最近発行された播田安弘(はりたやすひろ)さんの「日本史サイエンス」という本に書いてある。著者は攻め寄せてきた蒙古・高麗軍の船について、船舶の専門家の立場からその構造について研究した。その結果、軍船に乗ってきた蒙古・高麗連合軍の兵士は船酔いしていて、九州上陸時には多分、戦力のすくなくとも1/3は使い物にならなかったと推測している。

1274年に元の皇帝フビライは、日本征服のために6ヶ月以内に大型軍船300隻、小型の上陸用舟艇300隻、水汲み船300隻を建造することを高麗に命じた。これは結構無理な要求である。大型船1隻を作るための木材を集めるには、東京ドーム150個分の面積の森林を必要とする。また建造に必要な船大工や人夫、食事係まで含めた人員として、1日に6万人を動員しなければならない。当時の高麗の人口は250万から400万人とされるので、とてつもない負担である。結局、建造できた大型船は300隻もなかったので、以前に作った中型船を流用した。

当時の高麗船の構造だが、竜骨も肋骨もない、底が平たい、箱型の川船形状であったと推測される。また木材の接続に金釘を使わず、木釘を使っているが、これは強度が弱く、かつ作るのが困難である。竜骨や肋骨、それに金釘がないと、構造的に弱く、嵐に会えば破損しやすい。また船底の平たい船は外洋航行が困難である。日本の江戸時代の和船も、西洋の外航船も船底がV字型であり、波きりや安定性に優れている。つまり高麗船は外洋航行に向かず、かつ揺れやすかったのだ。

播田安弘(はりたやすひこ)さんの推定では、高麗船の大きさは全長28メートル、幅9メートルで、乗員は兵士と兵站兵あわせて120名、船員60名の180名とした。大型船を300隻も作ることは困難であったので、すでに作っていた中型軍船も含めて300隻とする。中型軍船は兵士と兵站兵で95名、乗員19名の合計104名とする。すると日本に攻め寄せた蒙古・高麗連合軍は総勢44000人で、そのうち戦闘員は26000人と推定される。

船の強度を持たせるために、船の底は二重底にして、その空間に水やバラスト用の石を積んだ。兵士や船員の居住区は上甲板の下にあり、寝るための空間として一人当たり長さ1.8メートル、幅0.8メートル、高さ0.8メートルとする。これで164名分となる。上甲板の下にずっとベッドが並んでいたとすると、ずいぶん窮屈であっただろう。

士官や上級船員の居住区と航海室、食堂などは上甲板後部の構造物に置く。トイレは船尾にあり、単に板に穴が開いただけの構造だ。馬も積まねばならず、馬小屋は前部の上甲板にある。馬は大量の飼料と水を必要とするし、糞尿の処理もしなければならないので、甲板の下では無理なのだ。軍馬の数は一隻あたり5匹である。これは捕虜になった蒙古兵の証言である。つまり120名の兵士に馬が5匹ということは、馬に乗れたのは士官級のものだけであり、とても騎馬軍団と言える代物ではなく、日本に侵攻したのは歩兵軍団であった。その点、日本軍の方が馬は多かったはずだ。

さて問題の船酔いだが、船のゆれには短い周期、例えば0.5-80ヘルツの振動と、長い周期、例えば0.5-0.1ヘルツの動揺がある。0.1 ヘルツだとすると10秒に一度の揺れである。船酔いするのは、この長い周期の揺れである。

また船の上下運動の加速度も重要だ。地球の重力加速度の大きさを1Gというが、0.1Gの加速度なら、自分の体重が10%増えたり減ったりする。長期乗船するクルーズ船の船酔いの国際基準では、揺れの周期が3-10秒の場合、上下加速度が0.02G以下とされている。

船の揺れの周期を決めるのは、基本的には波の周期である。対馬海峡の11月の波の周期は平均6秒で平均波高は1.1メートルである。多くの蒙古船は船底が平たいものであり揺れやすかった。船の速度を3ノット、波高を1メートルとすると、蒙古船は船酔いの国際基準を超えている。乗員のうち海になれた船員を除いた大陸系の兵士は、乗船経験がなく、多分泳ぐこともできなかったであろう。

そんな彼らは長期の航海で確実に船酔いしたであろう。大勢が狭い船内に閉じ込められて長期間航海すると、船酔いのために吐いたであろうから、さらに船酔いは強まったはずだ。また船酔いのために食欲不振になったであろう。こうして彼らが博多に上陸したときは、すくなくとも1/3の兵士は満足に戦うこともできなかったであろうと推測される。

さらに上陸作戦の問題点がある。300隻の船団から全軍26000人と、馬が700-1000頭上陸するためには、上陸用舟艇の定員を母船の1/10と仮定すると、10往復必要である。1往復に1時間かかるとすると、10時間必要である。まだ暗いうちの朝6時から上陸を開始しても、全員が上陸するのは夕方の4時である。もう暗くなり始めている。

全軍が上陸するまで待てないので、上陸した部隊から順次進撃させたであろう。文永の役の戦いについては、以前に話したが、蒙古・高麗軍はまず麁原山(そはらやま、祖原山)という標高33メートルの小高い丘を占領して、そこを本陣とした。そして博多との中間の山にある赤坂警護所を一時占領したが、すぐに100騎300人の菊池武房の軍勢に反撃されて敗走している。

そのあと、蒙古襲来絵詞で有名な竹崎季長はたった5騎で蒙古・高麗軍に突入を試みている。こんな少数で突入できたのは、敵が大軍でなかったからだ。竹崎季長はその時に負傷したが、その時に到着した白石通泰率いる100騎300人に救われた。

しかし、これら少数の日本軍に、なぜ大軍のはずの蒙古・高麗連合軍は敗れたのだろうか。その理由の一つは、彼らは船酔いで体力を消耗していたことがある。もう一つの理由は、彼らが上陸に手間取り、まだ多くの兵士は上陸していなかったことがある。そこで戦力の逐次投入を行なった。これは戦術的にはやってはならないことだ。だから彼らは順次、撃破されたのであろう。

さらに蒙古軍の副司令官の劉復亨(りゅうふくこう)が矢で射られて負傷したこともある。さらに別の原因として、11月の玄界灘は最大風速が21メートルもの強風が吹く日が多いことがある。彼らが朝鮮半島に帰還するには、向かい風、向かい波となり、当時の小さな船では航海できなかったであろう。そこで帰るなら早い方が良いという判断が働いて、その夜のうちに全軍を撤収して、撤退したのだと思われる。

なぜ現在の暦で11月と遅い季節に日本侵略を始めたか。その理由として6月に高麗国王の元宗が病死したことがある。そこで次回の弘安の役では、もっと早い時期に侵略を開始したが、この時も蒙古・高麗連合軍は一部の島を除けば九州本土に上陸すらできなかった。

蒙古襲来の第一回目である文永の役に関して、当時の高麗船を技術的に分析した結果、乗員には船酔いが激しかっただろうと推測される。そのために九州に上陸した蒙古・高麗連合軍は体力と気力にかけて、ろくに戦うことができずに、日本軍に駆逐されたと推測される。

   
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