日本の技術力ー技術者根性(ブログ その63)
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2011年6月03日(金曜)05:30に公開
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作者: 坂東昌子
1.朝日新聞の「内部資料」記事
2011年5月13日、「『注水が最優先』、『ベントせよ』東部電力の内部資料」という見出しで、朝日新聞に地震直後の現場の膨大な内部資料の一部が掲載された。地震直後にすでに、ひび割れが生じ、津波前に、放射線量が上がっていた事がはっきりしてしまった。その後、各新聞報道は、福島第1原発の事故は地震直後の状況を報道し始め、「東京電力が原子炉のデータを解析して報告書を原子力安全・保安院に提出した」として、2号機に続いて3号機も初期の段階でメルトダウンを起こした可能性を認めた。「今更」というような報告である。
この記事には目を見張った。この内部資料は、朝日新聞にしか掲載されておらず、しかも署名入りで報道されている。記事になっているのは、3月11日の地震後の現場のやり取りの内部資料の一部である。当時、不明瞭な当局側の説明にいら立ちを隠せなかった事情がわかる科学技術者の推測が仔細に報道され、解説がYouTubeにもアップされたが、一向に真実がわからないままであった。推測はあくまで推測だった。このような情報を持っていたのに、これまで出てこなかった。今頃急に浮上してきたのは、福島第一原発の事故調査のために来日したIAEA(国際原子力機関)の調査団が5月26日から現地調査を始めたからか、とまたもや勘繰りたくなる。
この秘密文書を真っ先に報道したのは、大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件をすっぱ抜いた板橋洋佳という敏腕の記者だそうだ。大阪特捜高等検察庁不正事件も、朝日の記事がでるやいなや、最高検が直接捜査に乗り出し、パソコンでFDの改ざんをした前検事の逮捕、検証チームの発足と、矢継ぎ早に発表が続いた。今回も、国会での質問をはじめ、当時の様々な問題点が論議され、当初の処置について議論が騒がしくなってきた。大切な衆院東日本大震災復興特別委員会での自民党の冒頭質問でのやり取りをみると、「再臨界の可能性」を巡ってのつまらない押し問答を繰り返している場合ではないだろうと悲しくなる。
2.津波か地震か?
本題に戻って、内部資料で最も気になることは、今回の原子炉が地震時にすでに損傷を受けていた、すなわち、「地震に対しての備えはしっかりしていたが、津波の想定ができていなかった」というこれまでの主張とは異なるのかどうかである。原子炉事故が起こった直後から、米ニューヨークタイムスは、1~5号機の原子炉の格納容器は、米ゼネラル・エレクトリック(GE)が開発した「マークⅠ」といわれるもので、すでに1970年代半ば、圧力強度の欠点など問題点が暴露されていたと報道していたのだ。マークⅠは、コンパクトなのでコストはかからないが、圧力耐性が低く、冷却機能の停止などで容器内の圧力が増せば、爆発の可能性も高い、ということだった。これを製造した米国ジェネラル・エレクトリックス社(GE)の元技術者は、マークⅠは、その後継型のマ-クⅢと比べ小さくて、圧力に弱いだけでなく、狭い容器内に冷却水などの配管や配電が複雑で、そのメンテナンスが難しく、事故が起きれば、現場に近づくことも困難で対処できないと語っていた。それには、次のように書かれている。
GEの元社員デール・ブライデンボー氏はインタビューに応じ、同社製「マークI型」原子炉について、大規模事故による負担に耐えうるよう設計されていなかった、と指摘。「当時、公共事業各社がこの事実を十分深刻に受け止めていたとは思わない。分析が終了するまで一部の原子力発電所は閉鎖されるべきだと思っていたが、GEや公共事業各社はそれに応じるつもりはなかった。そのため私はGEを退職した」と語った。さらに、同氏が指摘した設計上の問題は確かに福島第1発電所に知らされおり、かなりのコストを要することも明らかになっていた、と述べた。
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彼によれば、「世界中のマークⅠ約20基の安全性や発電効率を点検、改良する部署の責任者で、すでに1975年、その欠点に気づき、社内だけでなく、米原子力規制委員会(NRC)と電気事業者にもその事実を知らせ、稼働停止を進言した」というのである。これについては、科学カフェ京都のホームページに「福島原発災害は人災」と題して、長谷川晃氏がご意見を書かれている。
当時、「米国ではこういう記事が出ているのに、日本ではどうしてほんとのことを語っていないのか。外国から情報をもらわなければならないとは何事だ」とみんなが嘆いていたが、2か月も遅れてともかく真相が明らかになってきた。
3.内部資料が明かした現場の声
ところで、実は、この内部資料から私が本当に知りたいのは、地震直後の様子なのだ。それは、日本の現場のプロの動きが、報道から察しられるレベルだったのかどうかである。そのあと、いろいろな情報を探ってみたが、ネットで調べても、詳細が出てこない。
実際に新聞に一部掲載されているのは、3月11日17:07から、3月16日10時4分までの主な記録である。膨大なデータによると、地震直後、にすでにひび割れが生じ、津波前に、放射線量があがっていた事がはっきりしてしまった。技術者レベルでは、そのことで緊張し、最初は「電源確保」「冷却」「放射線漏れ」対処で緊迫していた様子である。
緊急事態の中で、的確な判断を迅速に行い実行する事が出来なかった理由について、今まで「蚊帳の外」におかれた専門家たちは、さまざまな推測をしつつ、「どうして早く電源が確保できなかったのか」といったごく正当な疑問を持ち続けていた。しかし、今回のこの記事を通して、実は、地震直後から、現場にいたプロは、電源を確保する事の重要性も、ベントや冷却の緊急性も、すべて自覚していたのだと推察できる。東電の現場に、プロがいなかったのではなく、すでに地震直後に線量が高くなり、思うように作業ができる状態でなかったこともうかがい知れる。
また、これに基づいたと思われる記事がニューヨークタイムス(New York Times )に出ていることを知った。
ベントを福島第一原発の吉田所長が主張して、ためらう武藤副社長と怒鳴りあいになったということだ。実際には、ベントが遅れて爆発したようである。ベントは手動でしなければならず、それがなかなかうまく動かなかったらしい。この点はアメリカの同様な原子炉(BWRマーク1)の問題点であると指摘しているのである。(松田さんの紹介)
そうなのか!
決して日本の技術レベルが低かったのではなく、記者会見している回答者がごまかしたのか、理解できなかったのか、どちらにせよ、現場のプロは現状を正しく認識し、何をすべきか分かっていたのである。ということになると、いったい、それではどうしてその思いが貫けなかったのかということになる。その意味では、情報がひた隠しにされていたのは誰のせいなのか専門家にまで情報を流さず、みんな蚊帳の外に置いたのはだれなのか、そこが知りたいのである。
4.JCO事故と福島原発事故を比べる
1999年9月30日、東海村で起こった臨界事故、あの時も、「想定外」だと言われた。もちろん、規模も違うし、事故の性格も違う。似ているのは、一瞬を争う処理が事故の拡大を招くというところである。その時、科学技術者はどう行動したか、いやどう行動できたか、それを比較してみたい。
当時、私は中西健一さんといっしょに書いた論考「科学者としての責任‐臨界事故を振り返って-」(論集2000春JCO)に、この事故の経緯と情勢分析をまとめている。当時、たまたま、原子核物理学者である、有馬朗人氏が科学技術庁長官だったことも思い出す。言っておくが、有馬氏でさえ、初期の段階で、臨界事故と思わず、中性子を測定する指示を遅らせたことを後で後悔しておられる。想定外の現場で、あらゆる可能性を想定し、それに備えることが、事故を拡大しないことにつながるのだ。今回の事故でも、ごく初期の段階から冷却水にホウ酸を注入していたのも、こうした万が1の危険性まで想定した処理だったのであろう。
この内部資料は、事故の経緯を見事に再現しており、現役のプロが少なく、人材を養成していないこと、こういう緊急時に、全国のプロを早急に集めて知恵を絞る体制がとれなかったという事実が浮き彫りになろう。これらが、科学技術人材養成の立場から、知的人材の活用という観点から、今後の大きな問題への示唆を与えるのではないかと思われる。
さて、先の私のJCO事故の論考(file 論集2000春JCO.dox)のP94に、「当日の1人の科学者の動きを紹介しよう。」として次のように述べている。原子力安全委員会が、臨界事故が続いていると判断したのが18時30分、それから安全委員会は急きょ東海村に委員を派遣した。その委員の中に住田氏がいた。住田健二氏は、大阪大学理学部を出て、同大学工学部原子力工学科教授であったことからも分かるプロで、当時は同委員会委員長代理だった、
住田氏は、臨時事故の可能性を探り食い止める為に、情報を収集し、ただちにシミュレーションをさせ、状況を把握した。そして沈殿槽の外側に冷却水が入っていないウラン溶液だと増倍係数はどれくらい、水が入っていたらどれくらいであると確かめていた。増倍係数が1を超えると増殖する、つまり臨界に達する。住田氏は、直ちに臨界事故の全容を科学的に把握した。このシミュレーションがあったからこそ、臨界事故を初期の段階で食い止める手立てを明確にできたのである。
事故の詳細な経緯は、この論考のP93にあるのでそれを参照してほしい。時々刻々推移する現場の状況の逼迫した様子が分かるだろう。ここでも一部データが提示されなかった事もあったようだが、ほぼ正確なデータを外部から駆けつけた原子力安全委員会から派遣されたメンバーが把握できたことは幸いだった。ここで重要なことは、
住田氏はほとんど中央に相談する間もなく、適切な判断を下した、つまり早急にホウ酸を注入して中性子を吸収し臨界以下にする方針を実行させたのである。慎重なシミュレーション計算と迅速な判断、この一刻を争う時に、住田氏は、科学者として、中央に相談する間もなく、判断し、実行した。身分の保全より科学者としての判断を優先させた住田氏の迫力が事故の拡大を防いだのであった。
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今回の事故と、JCOの事故を比べてみて、最も異なる点は、この「中央の許可もなく、緊急行動を指示できた」理由である。今回の原発事故では、東電の経営者と官僚ばかりが動き、「プロの科学技術者はどこにいるのか」と不安が掻き立てられた。発表も要領を得ていないのだ。
私のこの同じ住田氏の新聞記事を、「なぜ学者はバラバラなのか(ブログ その57)」で紹介した。そして今回、どうしてプロを総動員しなかったのか、科学的な事実を正確に把握するために最大限できることをしなかったのか、現場にはプロはいなかったのか、と思った。しかし、上述の内部資料は、プロはいたということを示しているのではないかと推測する。
住田氏は、「技術者根性」という言葉を使われている。データの基づき的確に状況を把握し、一刻を争うときは、中央の指示をまたずに、自ら指示を出す。これこそ、決定的に今回希薄になっている点であった。
科学や技術は、その場限り「すぐに役に立つ」といった安易な位置づけでなく、基礎をしっかり踏まえた本物の科学技術者を養成することが必要なのだ。人材養成は時間がかかる。今日明日にできるものではない。いったん途絶えると、長期にわたって影響を受ける。立て直すまでに、どれだけの時間がかかるか、そのことをしっかり踏まえて、次の方向を見据えなければならないのである。
経営者も政治家も、もっと現場のプロの言うことに耳を傾けるべきだ。
先の辣腕新聞記者、板橋洋佳氏は、『埋もれた話を聞き出し、証言を裏付ける取材を徹底的にしたことが記事につながった。自分が感じた疑問を出発点に、日常の取材から一歩踏み出す。それが記者としての基本動作であることを、あらためて実感している。』といっているという。事実を直視し、疑問を徹底的に検討するのは、まさに科学者精神でもある。