第99回:「法律の論理と科学の世界:小保方さん記者会見から思ったこと」by 宇野
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2014年4月14日(月曜)00:00に公開
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作者: 宇野賀津子
4月8日小保方さんの記者会見があった。ある新聞記者に聞かれていたことも有り、ちょうど自宅で仕事をしていた関係で、記者会見をみた。
彼女の側は、写真は単なる取り違えであり、電気泳動の画像はきれいに見せるためにやった結果で結論は変わらないとしている。従って、再調査と不正認定の撤回をもとめている。小保方氏の人権という意味では弁護士の論理があるだろうが、今回の弁護士の説明は、法律論としてはそうかもしれないが、研究者の世界ではその論理は通じないと思う。そう、これを全て受け入れては、科学者全体の信用に関わる。研究というものがそんないい加減なものであると一旦不信の目を向けられると、単なるミスでしたと言って謝って済むことではなく、それを払拭するために必要なエネルギーは、大変なものであるとの認識が必要である。
一方で、小保方氏は未熟さ、認識不足、ということで謝ったということは評価しよう。また質問にそれなりに答えたと言う点も評価しようと思う。答えにくい点は、研究秘密や個人のプライバシーと言う言葉でうまく逃げたねと思ったが。研究の世界のルールへの未熟さに比べ、こちらの方はうまいなと思った。
あとは、理研が今後彼女をどう扱うのだろうか。理研のチームの第三者による証明と、理研は小保方氏にも今一度チャンスを与える度量はないだろうか。彼女の力量は、ユニットリーダーという独立した研究者としては、未熟であることが明らかになってしまったのだから、当然一研究員として出発すべきであろう。だれかシニアの研究者がついて、ノートの記録の仕方、データの整理の仕方から指導する必要があるだろう。もちろん理研がSTAP細胞の存在については肯定的に考えているとしてのことである。そのチャンスが与えられたとしても、彼女はその研究は、国民の税金の上に成り立っている、若い研究者への投資という認識であると思って、真摯に実験に取り組んで欲しいし、一つ一つの実験が血税でなり立っていることへの自覚があってしかるべきだろう。それが出来なければ、彼女はアメリカへ行くのも一つであろう。どちらにしても棘の道であろう。それは彼女に悪意がなかったとはいえ(そう思いたい)、未熟さ故に犯した過ちに対する代償であろう。
たとえ一連の騒動が彼女の単なる未熟さ故の過ちであったとしても、今回は彼女自身の状況判断の甘さがあるのではないかと感じる。理研の調査委員会はデータの信頼性の担保をもとめてノートなどを精査したのであろうし、ノートを辿ることで、少なくとも小保方氏がSTAPを創ったのは間違い無いと思いたかったはずである。それがノートからは辿れなかったということではないだろうか。
オーバードクター時代の一時期、京大生物物理の岡田研に出入りし、現理研所長の竹市氏のカドヘリンの仕事を横目で見ていた私には、竹市所長のあんな顔見たくないとの思いがした。小保方氏の時間的制約の中で、説明の機会が十分でなかったとの言い分もわからないでもないが、調査した方にしたら、多分研究者の目からみると、こんなにあやうい状態の記録しかなかったのかと思ったのではないだろうか。近年、特許がからんで秘密主義がはびこる中での悪弊が出たのかもしれない(本当は特許がからんでいると優先権を主張するために、ノートもより厳密なものとするのだが)。今回の記者会見を見ていると、彼女は特許権を守るなどと言うような言い方での説明の仕方は長けているように見たが、それを保証するための記録の方はあまりにもずさんだったと思う。彼女が論文発表までに、ラボミーティングや学会発表の場で、研究面の多様な批判にさらされる事なく、周辺の政治的判断もあって派手な演出で発表してしまった可能性も高い。そういった意味では、新しい発見は、少なくともチームの中では共有すべきものであろう。そしてそれは疑いの目が向けられたとき、身を守ることにもなる。
彼女はSTAP細胞は200回以上作っているとのことであるが、研究者なら研究者らしく、ノートの一端を示しても明らかにしてほしかったと思う。電気泳動の実験にしても、見栄えが悪いというなら、切り貼りではなく、見栄えのよい写真を創るための再実験の努力も必要であろう(電気泳動などの再実験は、1個のマウスを作ることに比べれば、それほど大変なことではないし、可能なはずである)。結果は覆らないとしても、人にわかるように証明するための努力もまた要求されることも事実である。
なお、画像については、説明を聞いた後でもまだ疑問が残っている。蛍光写真というのは、結構似通った写真が多いので、画像写真の整理はとても重要である。特にノート、元画像の整理力が問われる。早大の論文の問題点や画像の取り違え、データの合成など、科学の重要な結果を報告するための厳しさがまだまだ欠けている。そしてこういった問題が、科学に対する信頼を揺るがしてきた。
3.11以降私が深く福島に関わる事になったことは以前にも書いた。福島では低線量放射線の影響について、科学者がてんでに情報発信し、大きな混乱が起こった。その多くは、必ずしも悪意からの情報発信ではない。放射線は少しでも、遺伝子を傷つけるというのは一般論としては正しい。しかし人類はその中で生きてきたのである。一般論を色々な研究者が、放射線生物学のその後の発展の知識を確認しないまま発信して、福島の混乱を招いた。善意から出発した情報発信でも、中途半端な知識で危険性を煽った影響は大きく、その罪は大きい。きちっとデータに基づいた過小でも、過大でのない情報の伝達が望まれる。
また、この間私は低線量放射線の影響について、原爆訴訟などでは法学的判断と科学的事実の問題点を感じている。法学は、科学的曖昧性を持ったことについては、弱者に有利なようにとの判断が働くと私は考えている。法学の論理と、科学の論理の齟齬が混乱を起こしている。法学の論理を否定しないわけではないが、科学の論理とは別次元であるということを現時点では理解しておく必要がある。従って、小保方弁護団の論理は法学の論理であったとしても、科学の世界の論理ではない。科学は法学の論理で判断されてしまうと、全く権威のないものとなってしまいそうな気がしているのだが。
3月11日以降色々な論文を見る機会があった。科学的事実が本当に人のためになり、それが人類の幸福に繋がる為に、研究者たるもの、事実の前に謙虚であるべきである。そして過小でも過大でもない評価をして、データを元に考えを深めていかないといけない。結論はかわりないとしても、データの取り違え、画像の合成など、いい加減なデータで結果を示されたとすれば、専門的中身の評価の出来ない人間には、それに至るプロセスが正当かどうかで判断せざるを得ない。従って、結果を示すプロセスに不正義があれば、それだけで科学の信頼性は揺らいでしまう。今回の会見を通じて同情的な意見も出てくると予想されるが、科学者たる者、自分の出した結果に真摯に向き合って責任をもたないといけない。