2024年10月13日

「あいんしゅたいん」でがんばろう 13

前回書いた「数物」とフェルミ問題の絡みで思考が太宰治の「人間失格」に飛び火した。十数年前に書いた文章を「太宰生誕百年」記念の盛り上がり記事を見ていて思い出した。太宰は「掛算割算の応用問題として」の「科学の嘘」「統計の嘘」「数学の嘘」を乗りこえたと主人公に語らしている。フェルミ問題とはまさにこの「掛算割算の応用問題」である。

1996年に書いた私の文章「問われる科学者のエートス」で引用している「人間失格」の一節(「第三話」の一節)をまず見てもらおう。

「自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。世の中というところは、そんなに、おそろしいところでは無い、と思うようになりました。
つまり、これまでの自分の恐怖感は、春の風には百日咳の黴菌が何十万、銭湯には、目のつぶれる黴菌が何十万、床屋には禿頭病の黴菌が何十万、省線の吊革には疥癬の虫がうようよ、または、おさしみ、牛豚肉の生焼けには、さなだ虫の幼虫やら、ジストマやら、何やらの卵などが必ずひそんでいて、また、はだしで歩くと足の裏からガラスの小さい破片がはいって、その破片が体内を駈けめぐり眼玉を突いて失明させる事もあるとかいう謂わば「科学の迷信」におびやかされていたようなものなのでした。
それは、たしかに何十万もの黴菌の浮び泳ぎうごめいているのは、「科学的」にも、正確な事でしょう。と同時に、その存在を完全に黙殺さえすれば、それは自分とみじんのつながりも無くなってたちまち消え失せる「科学の幽霊」に過ぎないのだという事をも、自分は知るようになったのです。
お弁当箱に食べ残しのごはん三粒、千万人が一日に三粒ずつ食べ残しても既にそれは、米何俵をむだに捨てた事になる、とか、或いは、一日に鼻紙一枚の節約を千万人が行うならば、どれだけのパルプが浮くか、などという「科学的統計」に、自分は、どれだけおびやかされ、ごはんを一粒でも食べ残す度毎に、また鼻をかむ度毎に、山ほどの米、山ほどのパルプを空費するような錯覚に悩み、自分がいま重大な罪を犯しているみたいな暗い気持になったものですが、しかし、それこそ「科学の嘘」「統計の嘘」「数学の嘘」で、三粒のごはんは集められるものでなく、掛算割算の応用問題としても、まことに原始的で低能なテーマで、電気のついてない暗いお便所の、あの穴に人は何度にいちど片脚を踏みはずして落下させるか、または、省線電車の出入口と、プラットホームの縁とのあの隙間に、乗客の何人中の何人が足を落とし込むか、そんなプロバビリティを計算するのと同じ程度にばからしく、それは如何にも有り得る事のようでもありながら、お便所の穴をまたぎそこねて怪我をしたという例は、少しも聞かないし、そんな仮説を「科学的事実」として教え込まれ、それを全く現実として受取り、恐怖していた昨日までの自分をいとおしく思い、笑いたく思ったくらいに、自分は、世の中というものの実体を少しずつ知って来たというわけなのでした。」

やたらに数字が登場し、まさに「数量で考えよう」を実行したあとでその無意味さを断罪するのである。私がこの引用箇所を議論しているのもまさにこの「断罪」に簡単に引き下がってはならないと考えたからである。この長文は小説の前後をとってみても必然性がなく、要するに太宰が言いたかった「科学論」なのだと思う。廃人の口を借りて断罪したかったのは世間にはびこる科学への名状しがたい畏怖と幸福をもたらさないその視点が同居する文化世界の異様さなのだと思う。

「幸福をもたらさない視点」とは、例えば、同級生のがんでの訃報を知って「ああ、助かった」と考えるのは不道徳であろうが、確率論的にはそれは正しい理解である。知識をどう使うかの教えは科学にはないのである。このそれこそ人類3000年の学問論を巡る問題について私は自分なりの考察を続けた。拙著「科学と幸福」(岩波現代文庫)、「科学者の将来」(「問われる科学者のエートス」はこの本に再録)(岩波書店)などがそれらである。大事なポイントは科学に威圧されて呑みこまれないことであり、科学を睥睨するような知的立場に立とうと努力しつづけることである。

「重い話し」は別の機会にゆずり、佐藤版フェルミ問題「大阪には何軒、葬儀屋があるか?」の解答例を添付しておく。