2024年10月08日

8月のサロンから(ブログ その124)

戦争をめぐる物理学者の思い

10年ぶりに日本で開かれるパグウォッシュ会議が近づいてきました。この会議に向けて、どうしても湯川先生と憲法9条との係わり合いを書きたいと思っていたのですが、いろいろな仕事に追われたこともあってなかなかできていません。そろそろ、この思いを書かないといけないと思い、とりあえず、あいんしゅたいんのサロンでの8月の話題をまず紹介します。随分前に書いていたのですが、せっかくなので小沼先生に見ていただこうと思っていましたが、お忙しい先生ですので、お返事が来ないのですが、そろそろパグウォッシュが始まる頃ですので、ご承諾なしのまま、私の独断でご報告します。

1.小沼さんのお話(8月29日サロン)

本日のサロンは、物理学者の小沼先生にお話願いました。今日はパワーポイントなしで、3つの資料を配布されました。パワーポイントでのお話は、便利な面もありますが、資料を見ながらお互いの顔を突き合わせて向かい合って議論するのは、納得がいくとき、おかしいなと思った様子が相手の表情でわかり親近感があります。いい感じの議論になりました。資料をご用意くださりありがとうございました。

出席者は、若い方から順には、理学部学生、原子力工学の院生、物理から医学物理士になった若手、そして基礎科学研究所の研究生の若手、常連の熱心な市民3人、名誉教授や技術者など多彩な顔ぶれで、全部で11人、議論も活発に行われました。年齢層が上は85歳から下は、21歳という幅広い層が集まり、わいわい議論できました。

2.日本国憲法第9条拡大のための次の一歩

「さてどこから話を始めようか」というリラックスした雰囲気の中で、ともかく、まずは7人委員会の「今月のことば」、タイトルが「日本国憲法第9条拡大のための次の一歩」から話は始まりました。憲法9条は何を意味しているのかが話のきっかけです。

1955年のラッセル・アインシュタイン宣言(RE宣言)を受けて1957年に始まったパグウォッシュ会議長だった故ジョセフ・ロートブラットは、「日本の特徴は、原爆の被爆国としてよりも、憲法第9条を持つ国ということだと思う」といわれたそうです。このことは、2015年2月の当サロンで、パグウォッシュ会議世界大会組織委員長 鈴木達治郎氏のお話のとき出てきて、私も感銘を受けたものでした。この意味を今一度深く考えてみるきっかけになる文章です。小沼さんは、「核兵器廃絶には未だ到達していないが、南極(1959年の南極条約での軍事措置禁止)での非武装地帯の確率、非核兵器地帯の増加(1967年から)、また国単位ではモンゴル(2000年)、など、さまざまな形でじわじわと非核兵器地帯が世界で地域が広がっている」といわれるのです。この広がりは少しずつですが大きくなり、今では、南半球はすべて非核地域だということです。

3.広がる憲法9条の精神

もちろん、この流れは、人類が、「戦争によって国力を増進するために働くことこそ、愛国心の現れ」という価値観が、これまでの歴史の中で徐々に変わってきた中で、さまざまな思惑を乗り越えて広がってきた歴史のなかで理解しておくべきことですね。特に重要なのは、あの「冷たい戦争」といわれ、いつ終わるともどういう形で終わるとも見通しのなかった東西の壁が、無血で崩壊したことに代表されるように、戦争なしで紛争が解決することがあるのだということを思い出させます。突如とみえたベルリンの壁の崩壊は、じわじわと世界の人たちの戦争に反対する声の中で、広がって生き、平和への願いにつながったわけで、長い世論の浸透の末に実現したものでした。ベルリンの壁は、1989年11月に、武器を持たない市民の手によって打ち砕かれたのでした。まるで夢のようでした。

この市民の勝利は、まさに、歴史の流れの中で徐々に暖められて表面化し田と受け取っていいと思います。そして、それは、もっとさかのぼれば、第1次世界大戦後の「紛争を戦争で解決しない」という精神をかかげた国際連盟の発足(1920年)にも現れているし、1928年の「パリ不戦条約」の流れから始まる一連の動きから始まったと見て良いでしょう。そしてその思想の源泉は、イマヌエル・カントの「永遠平和のために」(1795年)という著書に記された哲学の基礎にあることを、10年前の広島で開かれたパグウォッシュ会議に向けた勉強会で知りました。人々を、それまでの「戦争の英雄像」ではなく、「平和の女神像」の方へと導いた思想ですね。実は、このパリ不戦条約には、日本も参加していたことを最近知りました。

残念ながら、この原則はファシズムの嵐の中で無残にも破られていくのでが、それでもなお、営々として人々の心に植えつけられ広がっていったことを、ベルリンの壁の崩壊が如実に示しています。戦争中も、この流れは人々のなかに静かに広がっていったのではなかったでしょうか。私は、この市民に受け継がれた流れが、回りまわって日本国の憲法として開花したのだ、従って憲法9条は、たまたま日本で実現したとはいえ、これは世界中の平和を希う人々の宝物として引きついていくべきだと、前々から思っています。つまり、科学の真理が世界で共有されるように、憲法9条は、日本だけの財産ではなく、世界の人類の宝なのだと思っています。

戦争放棄などというと、いかにも理想だけを掲げて実現性のないと思っている人も多いと思いますが、小沼さんのお話は、実際に、この思いがどう伝わって広がっているかを説得的に示してくれたものでした。小沼さんは、歴史を見ると、9条の精神は、じわじわと広がっていることを実感させてくれる、といわれました。これは確かに、説得力がありました。

4.さまざまな疑問をめぐって

こういう話が出た段階で、質問に入りました。

1)軍隊を持たないのが理想だというが、相手が攻撃してきたらどうするか。
2)9条のある日本こそ真っ先に非核宣言をしてしかるべきなのに、モンゴルは非核宣言しているのに、日本のほうが遅れているのか。
3)アインシュタインは警察が必要だといったが、湯川は9条の下でぜったい平和主義を取った。警察は最終的には軍隊と同じ武力で相手をやっつけるのでは?
4)原子力エネルギーの評価と核兵器

などなど、いろいろな疑問が飛び出しました。

「中国は戦争の準備をしているので怖いと思っている人が多くなっているのはどうしてか」「そもそも軍隊を持たないでも国としてやっていけるのか」、「軍隊をなくすというのは現実的か」など、いろいろな意見が飛び出しました。

そして、ほぼ落ち着いたところは、国といってまとめて物を見るのではなく、もっと市民として人類としてみてみると、平和を望む世論が広がっていくのが見えるのではないか、ということでした。中国を敵視するというのも、一方的な情報でなく、正確な情報を基に公平な判断をしないといけない、という話になりました。

「核兵器と戦争の廃絶が人類の存続のために不可欠だ」という1955年のラッセル・アインシュタイン宣言(RE宣言)から60年を経た今日、この目標はどこまで達成されたのでしょうか。人類の歴史を振り返って、戦争のない世界を実現するなんて、まるで夢のようなことではないか、そういうロマンチックな非現実的な目標が達成されるのか、という素朴な疑問が誰にでもあると思います。

「そういう意味では、湯川先生は、一見実現できないと思われることでも、『「その気になれば実現できる』と信じておられたと思います。それは湯川先生の研究姿勢からも来ると思います」と小沼さんは言われました。それは当時、原子核を10-15mという小さな領域に原子核を構成している陽子や中性子を閉じ込めておくことなど、それまでの知っている力ではとてもできないと思われていた問題に取り組んだ湯川先生が「核力」の源泉の研究に成功したことから得たものではないかと思われます。この信念は、私が以前から言っている湯川精神に通じるものでもありますね。

5.小沼さんの思い

いろいろと書きたいことはあるのですが、それはまた、参加された皆さんからの感想を待つこととして1つだけにエピソードをご披露します。それは小沼さんが、パグウォッシュや素粒子論グループの核廃絶の取り組みに参加されたきっかけです。小沼さんは大学1年生のときは、湯川ノーベル賞受賞で沸いたころでした。そして、素粒子論グループの当時の雰囲気は、原子力という新しいエネルギーの存在に、夢をかけていたのでした。実際、原子力の平和利用に夢を抱いていた当時の若い研究者たちは、未開拓の原子力研究に飛び込んだ若い人たちがたくさんいたのです。当時は、原子力研究者はまだいなくて、基礎理論の研究をしていた原子核素粒子研究者が計画にかかわっていたのでした。

しかし、日本の原子力発電の導入に際しては、科学者の思いはそれほど届きませんでした。そして、若い人たちも批判を持っていました。素粒子論グループの中でも、この事態に対して的確な判断をするために、情報を交換する「研究者情報連絡会(KJR)」という組織が、京都や名古屋で立ち上げられました。学会でいつも行われている素粒子論グループの総会には、湯川・坂田・武谷といったリーダーたちも議論に加わっていました。そして、原子力の問題を真剣に議論していたのでした。そのとき、「東京で一番情報が集まるので、京都や名古屋だけでなく、東京のほうで、誰か責任者になってほしい」という話になったそうです。武谷先生が、「東大にはそういうことやる人はいないよな」と皮肉られたそうです。そのときまだ大学院生だった小沼さんは、「関西でできるのに東京でできないはずはないです」といったら「やれるものならやってみては」とけしかけられて、小沼さんはKJRの東京の責任者になったということです。この小沼さんの活躍は、すぐにみんなの注目を集め、翌年の学術会議の委員選挙でも、若手で当選してしまったのだそうです。切れ味のよい、実行力のある小沼さんですから、出れば出たで、その能力を発揮したに違いありません。そんなことで、学術会議の原子力関係の委員会を取りまとめる幹事にもなってずっとこの仕事に取り組むことになったのだということでした。科学者としての社会的責任を果たすことをまじめに考えていた若い研究者の小沼さんが目に見えるようです。

6.いろいろ考えさせられました

あと湯川先生が原子力委員を辞退されたころの話、戦時中の湯川先生の戦争への考え方など、いろいろと議論がありましたが、今日はこれくらいにします。

ただ、私は湯川先生の思いが、理想的な形では、まだ実現していないし、その限界もあったということをいろいろと考えることが多くなりました。それについては、また別途、お話するとして、サロンの大雑把な雰囲気は分かっていただいたでしょうか。いろいろと考えさせられるサロンでした。