2024年10月08日

「Scienceとは? そして、“生命”はなぜ不思議なのか?」和田昭允先生のサロンへのお誘い!(ブログ その123)

「サイエンス思考・・知識を理解に変える実践的方法論」(和田昭允著)の序論に、「科学の進歩を妨げているのは素人の無理解ではなくて、いつでも科学者自身の科学そのものの使命と本質に対する認識の不足である」という寺田寅彦の言葉が引用してあります。今の私には、この言葉がとても心に深くしみこんできます。実は和田先生のこの本にはこの引用が2回も出てきます。そして、次の文章

最先端の学術研究は、「未踏の智」を求めて、茫漠たる森羅万象を縦横無尽に探索する。だから人間が便宜的に作った境界は邪魔者以外の何者でもない。未知の暗闇を探るレーダーの範囲を、先入観で絞るのは具の骨頂である。

につながります。未開の分野に分け入ったときの躍動感と同時にその苦労の片鱗が読み取れるのです。「そんなのは本質的でない研究だ」とか、「そんなつまらないモデルを作ってなにになる」とか、その分野のベテランに決め付けられ、何度も苦労されたのだろうな、と思ってしまうのです。

私は、そもそも物理学、素粒子論の研究をしてきました。この世界では、新しいこと、今までの常識に合わないことが出てくるほうが面白いと思っている仲間がたくさんいるし、なんでも根本に戻って考えてみないと気のすまない仲間に囲まれていたので、あまり常識とか、固定概念に縛られることはなかったという自由な場にいました。

その素粒子論の研究の中でも、たまには固定概念にとらわれることがありました。例えば、ニュートリノの研究では、研究者の思い込みが長い間、ありました。それは、ニュートリノの話です。3種もあるニュートリノについて、長い間質量はゼロではないかという常識があったのです。しかし、98年の大気ニュートリノの観測から、どうもニュートリノ振動があるようだという気配が出てきて粘りに粘った末、ニュートリノには質量があるらしいことが分かったのです。話はややこしいですがニュートリノに質量がないと振動は起きないことは分かっているのです。この発見をうけて、スーパーカミオカンデを中心に、ニュートリノ研究がさらに面白くなり、研究が加速されました。この話に一番引っかかっていたのは、理論の研究者だったかもしれません。

しかし、実験屋さんは、太陽ニュートリノの精密な実験を続け、とうとう、第1と第2といわれるニュートリノの間ではお互いに変身し合うニュートリノ振動があることをはっきりさせたのでした。こうして、まさに、日本の実験グループがニュートリノ研究をリードし続けてきました。

ニュートリノに質量がある証拠として、ニュートリノ振動を見つけたときは、みんな興奮しました。それまで、長らく「ニュートリノの質量は、これこれ以下だ」という論文ばかり出ていたのですね。しかもそのあと、「ニュートリノ振動はとてつもなく大きい」ということになって大騒ぎでした。

振動というのをちょっとだけ説明しておきます。素粒子の仲間を分類すると、最も質量の小さなグループであるアップクォークの仲間たち(ここに第1番目のニュートリノも含まれます)、その次に、チャームォークの仲間(ここに第2のニュートリノが含まれます)、そして、トップクォークの仲間〔ここに第3のニュートリノが含まれます〕に分けられます。この3つのグループを比べると、質量の桁が違っているのです。第1のグループと第3のグループの中の代表的な素粒子、アップクォークとトップクォークでは1億倍ちがうのです。それで私達は第1世代、第2世代、第3世代とこれらを呼んでいます。世代が進むにつれて質量が大きくなっているのですね。

世代ごとに団結が固く、他の世代との交渉もないし、質量も違いすぎる、というなぞは「世代問題」と呼ばれていますが、実はこのなぞはまだ解けていません。ともかく、世代間の付き合い〔粒子混合〕は、ほんの少しで、あまり交渉がないのでした。ところが、この世代の一員であるはずのニュートリノ混合はえらい大きいこともわかってきました。この事情は「ニュートリノの偏見を破った科学者たち」という解説記事(パリティ特集号)に書いた覚えがあります。ですので、まあ、専門家ほど固定概念が植え付けられているのは、ある意味で仕方ありませんが。それでも、その偏見を結構早くうち破れる種類の研究者の、私がいたことは確かですね。確かに、このような偏見を破る画期的な仕事に対して、それほど固い頭で頑固に否定するという空気はありませんでした。もちろん、大騒ぎをして間違っていたこともあります。最近では、「ニュートリノが光速を超えた」という論文が出て、大騒ぎになりましたね。あの時、素粒子の世界では「ほんとに超えたら面白い、それってどういうことか」という論文がわんさと出ました。最も大半は、「なにかの間違いじゃない?」といっており、実験研究者たちは必死でほんとかどうか1つ1つ確かめて、結局測定の間違いを追い詰めましたので、結局から騒ぎに終わりましたが・・・。

こんなわけで、いつも今までの常識を疑って次の段階に進んできた経験があるので、データを見たとき、「あれ、今までの常識と違うな?」と思ったら、その原因を何とか理解し、統一像を作ろうという姿勢が強いのです。

その目で、放射線の生物への影響に関するデータを見てみると、一見矛盾したデータのどこがどういうメカニズムで理解できるのか、ということを考えるのです。そして、どういう風に、一見矛盾したデータを統一的に理解できるのかしっかりと見際めたい、そして、数量的にもきちんと整合性のある理解をしたい、そう思うようになるのです。

放射線の影響の専門家たちは、高線量の部分いついてはどのデータもリスクが見えるので一応合意はできているのですがが、ごく低線量の影響については、自分が信じるデータだけを取り上げて「リスクは大きい」とか「リスクは小さい」とか主張する場合が多いことをしばしば見てきました。そして、それと矛盾すると思われるデータに対しては、「まあ生物も多用だからそういうこともあるかも・・・」という調子で、どこが違ったからこういう違いが出てくるのか、あまりつきつめて、それ以上追求しないのです。

「生物は多様だから」とあいまいなまま納得してしまわれると、私は気持ちが悪いのです。だって、生物は細胞からできているという点では同じ側面をたくさん持っているはずなのですね。

しかも、ややこしいことに、この態度と表裏一体だと思うのですが、背後に「放射線は1滴でも怖い怖い」と主張するグループと、「安全だ安全だ」と強調したいグループが、真っ二つに割れてお互いに都合のいいデータだけを取り上げる傾向が強く、よけい話はややこしくなります。私は科学者としてこの状況を何とかしないといけないと思いました。物理屋がまともに、両方のデータを見てそのメカニズムを、統一的に、しかも定量的に分析しないとこれはまずい、そう思うようになりました。

これが、この分野で研究を始めようとしたきっかけでした。そして、徐々に若い人たちが興味を持ち始め、仲間ができたことで、議論が進み、ある程度の統一的理解に到達したのです。このときは、とても興奮しました。しかし、それらの主張は、その筋のプロたちになかなか理解してもらえませんでした。そういう経験をしてきているので、和田先生のご苦労がよく理解できたといっていいでしょう。

そして、研究を進めていくと、単に放射線の影響という問題ではなくて、生き物の進化という過程で、遺伝子の情報がどのように、それが、子孫に伝わり、逆に突然変異によって多種多様な生命を生み出し、今日に至ったのか、ということにも、視野が広まりました。

そういう中で、和田先生の著書、「生物は物質か」「物理は越境する」などの本を読み返し、とても勇気付けられました。そして、先生に、私達の生物分野への思いをぶっつけて、長くご無沙汰していた先生との交流が、メールを通じて再開しました。「私達の仕事は、生物に人たちには理解してもらえないな」という悩みもぶっつけました。

そして、今回、とうとう、サロン・ド・科学の探索で、先生がお話願えることになったのです。科学はいつも、新しい現象や現在の理論の矛盾を解決するという探求から始まります。そして新しい知見をどのようにして見つけるかの冒険です。こういうわくわくした気持ちは、科学者だけの特権ではないとおもいます。生きている中でいつも新しいものを発見し、それを楽しみ、次の世界が拓ける経験の連続です。ただ、科学者は、どうして新しいものを理解するかについて、多少経験を多く積んでいるのだと思います。こういうスリルに満ちた推理小説を読む喜び、わくわく感がそこにはあります。

9月は(2015年9月13日(日)14:00~17:00)は、和田昭允先生のお話しを聞いて、みんなでそのわくわく感を味わってみませんか。特に、研究を始めた若い方々、きっとこれからの生き方に光を投じるのではないでしょうか。

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