2024年10月10日

続湯川の贈り物その3を終えて(ブログ その174)

いろいろ思うところ、たまっていたのですが、他用で時間を取られブログが遅れました。さて、オンラインカフェ「続湯川博士の贈り物」第3回政池さんのお話(3月27日)は、とても素晴らしかったです。

そもそも政池さんが、戦中の科学者、そして戦後の科学者の苦悩を知って、荒勝文策のことをこれだけ丁寧に調べられたことは、やはり科学者の生き方を真正面から考えてのことだったと思います。
政池さんはNHKや映画の中からピックアップして、動画を抜き出し、それにご自分の調べたことを簡潔に重ね合わせて話されました。これには、政池さんの娘さん、政池知子さん(すみません、娘さんとはいえ、大学で教えておられる生物物理学ご専門の方だったことを後で知りました)が、しっかりお父様の意図を心得て、編集もして下さり、PPTと動画の切り替えも丁寧にサポートして下さったからこそ、完璧な出来になったのだと思います。
政池知子さん、本当にありがとうございました。よく整理されており、まとまってわかりやすく知子さまのご協力で、この調査にかけられた思いもよく伝わってきました。みなさん、きっと感銘を受けて聞いておられたと思います。本来なら5回ぐらいに分けてお話ししていただく内容の濃いものです。

このお話の経緯はすでにブログで説明しておりますが、あいんしゅたいんとは深い関係にあります。主題である、戦争に科学者はどう向き合うのか、とても悩みの多い深刻な問題です。特にウクライナ戦争を憂える多くの方々と共に、向き合わねばならない人類の課題にも拘っているのです。
その意味で、政池さんは、「湯川先生の原爆開発への関わりについてはこれまでほとんど資料がなく、謎に包まれていましたが、拙著が少しでもこの問題を調べる手掛かりになれば幸いと思っています。」と言われ分厚い労作「荒勝文策と原子核物理学の黎明」ができたのです。

政池さんは、「湯川先生の原爆開発への関わりについてはこれまでほとんど資料がなく、謎に包まれていましたが、拙著が少しでもこの問題を調べる手掛かりになれば幸いと思っています。
私にとりまして科学史に関する著書を記したのは初めてで、70年以上前の歴史を掘り起こすことが如何に難しいかを思い知らされました。なかでも京大グループの大戦中の原子核研究、広島原爆調査、サイクロトロン破壊時の出来事など、これまでほとんど調べられていなかったことが多く、史実を正確に記すことに大変苦労しました。」と語っておられますが、こんなご縁でできた労作だったのです。

私がこの中で、特に印象に残ったのは、GHQ が日本の原爆研究との関係で、原子核研究に関係ある原子炉を始めたくさんの資料を没収したときの、学問に対する荒勝さんの思い、とそれを知った医学部の当時の学生だった堀田進先生(デングウイルスで有名で、後に神戸大学医学部教授)が、英語の嘆願書をGHQ に出されたことは、深く感銘を受けました。

政池さんはわざわざ堀田先生を訪ねてこられたそうです。この堀田先生が、湯川博士が原子力委員会を辞退した後に、京大の中に「原子力研究の基礎から応用までを結ぶ研究組織」を提唱され、その設立に尽力されたという話も知り、医学部と理学部のこうした協力関係があったことも知りました。堀田先生は、医学部の代表の1人として、当時、理学部の助手だった堀場雅夫(のちホリバ製作所創業者)とともに、この構想委員会のメンバーとして活躍されたこととも重なってきます。

このあたりの話は、湯川資料を調べて明らかにされた澤田哲夫先生(東工大)にも語っていただこうと思っています。湯川さんは、原子力問題を決してそのままにはしてこられなかった、何もしなかったのではない!実は。そんな話も含めてぜひ「第3弾 湯川博士の贈り物」で取り上げたいと思っています。

色々な思いもありますが、それは、又別途、政池さんの思いを重ね合わせて、さらなる「湯川博士の贈り物第3シリーズ」という形で論じたいと思います。このカフェだけではもったいないな、いつか何らかの形で議論の場でお見せできるといいなと思っています。