2024年10月10日

第74回:「絶対音感と忘れられた能力」by 小無

世の中には絶対音感という才能があるそうな。ピアノのどの鍵をたたいても「ド」に聞こえる私にとっては確かめられない才能である。先日40年ほど前に買った音叉が机の引き出しに入っているのを見つけ、鳴らしてみた。「この音分かる?」と孫に聴くと「ラより一寸高い音」と答えた。「え!何言ってるの」と思って娘に聴くと、これまた同じ返事。音叉も40年経つと狂うみたいだ。
またモスキート音もよく話題に上る。これまた孫と夜道を歩いていたとき「じいじ、あの鳴き声は何の虫?」「え!? 何も聞こえないけど」秋の夜長が静かになったのは年のせいで,秋にはちゃんと虫は鳴いていたみたいである。

私には聞き分けができない音の差も聞き分けられたり、聞こえない音も聞こえる。そんな人間が存在する。皆が皆同じ音を聞いているわけではないということである。

さて視覚に移ると、勉強のしすぎか、はたまた姿勢の悪さのせいで多くの日本人が近眼である。これは本来持っていた焦点の調整能力を目が徐々に失う結果である。
これと同列には論じられないが、色も同じように見えているのではないのではと思ってしまう。聴覚神経に聞き取れる音程の幅や分解能に個人差があるように、視覚神経にも見える光の振動数の上限下限が異なっていたり、分解能に個人差があるのではないかと疑問になっている。さらに錯視にだまされやすい人だまされにくい人の違いがあるので、これは視神経から入った情報を大脳でどういう風に処理するかといったところまで話が広がる。
そこで、ある人には3種類にしか見分けられない赤色を6種類に見分けられるとしたら、各色の分解能がこの通り異なると、高精度分解能の持ち主には普通の人には見えない白色も見えるのではないだろうか。

本来持っている能力がなくならないように、又眠っている能力なら起こせるような教育システムの開発は必要ないだろうか。応用範囲は今後議論するとして。
聞こえないものが聞こえて見えないものが見える最もよく知られた例は何かと考えていて、ふと次の例を思いついた。
物理学者なるものは今まで「霊現象」なるものを真面目には相手にしてこなかったように思う。「貴方の背後には中世の貴族がついています」というようなまやかしは別にして、見えないものが見えているというのを素直に受け取ったらどうだろう。「霊が見える,霊の音がする」という人が全員嘘をついているという確率は低いのではないかと思う。それで上で述べたように視覚の能力(視覚細胞の能力)やそれを伝達する組織の能力が年と共に急速に衰えていって、物理学者と呼ばれる年代になったときにはなくなってしまっているとのではないか。
微妙に赤から外れた微妙赤外線や微妙紫外線を見える能力と、それらが合わさって見える違う風景があるのだとしたら能力開発の視点や情報伝達の方法の拡大において、いわゆる霊現象も研究対象になるのではと思ってしまう。霊現象を詳しく解析することで人の持っている能力の再発見ができたらおもしろいではないか。能力が衰え得なくなったのではなく、休眠状態に入っているのなら、再活性化により使い古されて老朽化している部分の代替期間になりはしないかなど妄想は広がる一方である。