2024年10月07日

「あいんしゅたいん」でがんばろう 16

アメリカのSTEM教育改革

政権交代の人事も決まってきて、オバマ政権の政策もようやく本格的に動き出したようである。いわゆるピサ評価では日本以上に悲惨な状態にある米学校教育の改革が盛んに最近の「SCIENCE」誌などに登場している。そこに登場するのがSTEMという略語である。いまや米教育界では自明の言葉のようだ。学校での科学教育を指す言葉としてSTEM- educationというのである。もちろん、教育界、科学界、政界も巻き込んで議論されてきた、教育改革の内容を指す科学教育である。

STEMとはscience, technology, engineering, mathematicsの頭文字である。英語の国だからscienceの語感が日本での語感とどう違うのかという呼称の問題でもあるのだろうが、内容的にいっても二つ点で引っかかると思う。一つは、scienceが純粋科学のイメージがあり、学校教育の科学は技術まで含むのだという意味なら科学技術、scienceとtechnologyをひっつけたS&Tという略語がある。なぜtechnologyも engineeringも、両方登場するのか? 第二点は、日本では数学をscienceに含めるのは自明のことになっている。ただ、初等中等教育というと理科と算数は違うという面もある。それならSTMとなるが、発音しにくいからEが入ったのかという気がしないでもない。米国では、NSFなどの研究費行政でも、数学は自然の科学でないからscienceと区別することはしばしばある。何れにせよ日本で理科教育というとすぐに物化生地への振り分けに入る傾向があるが、STEMのコンビネーションは一つの刺激になりそうである。

二本柱:学校教育の改善と大学での教師の育成

ところで、冒頭に載せたこのSTEM文書表紙の左下に古い新聞のコピーがあしらわれているように、連邦政府規模でのSTEM教育改革はソ連のスプートニク・ショックに端を発した教育改革以来の50年ぶりのモノという触れ込みである。1958年に議会を通過した改革案はNational Defense Education Act (NDEA) というもので、これで米国の理工研究界も爆発的に拡大した。今回のショックは知識社会、グローバル化、といったものでそう珍しいポイントではない。新鮮に見える点は教員の育成ということで大学や研究界を巻き込んだ政策になっていることである。STEM教育の必要性は理系でない職業につく大半の生徒のためのものである。そうした教育環境で科学を職業にする人間も生まれてくる、あるいは科学の世界もそういう人間が担うようになっていくという展望である。これは当面そう直接に大学に影響するものではない。さっそく関係するのは小中高とカレッジレベルの授業でSTEM教育改革の授業が行える教師人材の養成である。

これも当たり前のことだが、もう少しどぎつく言うと、研究大学と研究者コミュニテイ―は教師養成と教師の意欲と力量の改善するプログラムに参加する責任がある、というものである。研究大学の教授は今までは研究者にリクルートする視点で生徒をみてきて、また大学院の給付金をそういう生徒に与えてきたが、これからは教師養成の視点での生徒へのアドバイスも必要であり、給付金も必要である。現在の研究大学の仕組みを変えないと意欲的な生徒が教師の道を選ばない。それは研究大学の国家的目標を果たしていない、と評価されるような枠組みが要る、となる。国の政策が「何人博士をとらしたか」から「何人STEM教師を育てたか」で評価するようになるかもしれない。とくに特許や医療や省エネとかでの貢献の薄い研究分野の大学評価はそうなる可能性があるのかもしれない。

evidence-based

研究大学の教授は研究での能力で選ばれてるので学校教員育成など出来るのか?「イヤイヤやるのでは精神が入らない?」「研究の妨げになる」・・・・、現実には問題山積だろう。確かにハーバードのような自己資金の豊富な大学はこんな連邦予算による誘導策にはのってこない可能性もある。ここで二つの課題が登場する。一つは「そもそも研究をやっていることの社会的意義は?」という大問題であり、第二は「ともかくそこそこお国のために貢献するのにも付き合うから、両立するうまい方法がないか?」という大かたに人間の対応であろう。

実際、後者の対応向きの実践例の開示が出だしている。例えば ここ をみよ。ここでのキーワードがevidence-basedというものだ。これは指導の効果をちゃんと確かめながら講義などをするということで、例のクリッカ―といった小道具が登場する。それと「オープン・コース」という他人の経験も参考にして上手に時間をセーブするというものである。大学の講義は他人に干渉させない、などという従来の慣習からの脱却である。こういう「慣習」はむかし権力者の介入を許さない意味で出来たんだろうが、後にはさぼりの口実に利用されたのである。

科学的に考える(science way of thinking)

非専門家になる大多数の学生へのSTEM教育の核心は?ということで参考になる話として、1930年代に活躍した米国の教育哲学者のJohn Dewey(デユーイ)の理念を持ってきている。それがものごとを「科学的に考える」という教育、訓練である。「科学的」とは科学で知られたあれこれの知識を使ってという意味ではなく、科学での探求でやられているような思考方法という意味である。福沢諭吉が政財界人のエリート教育に「物理学の要用」を説いたのと同じ発想である。デユーイは科学者はその思考法の達人であると考えており、そのことを一般の人に伝えるのが科学者の教育者としてのあり方だとしていた。このプラグマテイズム哲学者の関心事であった民主主義社会と学校教育の関係の中に科学の立ち位置を見直すことが重要になっているように考える。