「あいんしゅたいん」でがんばろう 17
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2009年11月18日(水曜)12:13に公開
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作者: 佐藤文隆
「事業仕分け」が話題なっているが、科学技術予算はいつも強気目に提案され毎年のように大半の関係者が失望を味わうのが常習化していた元学界業界人の感覚からいうと、専門家の厳しい目で評価され、業界や省庁の手厚い後ろ盾を得て、あそこに引き出されてきた諸「事業」がまぶしくみえる。不特定多数の研究者を対象にした「科学研究費補助金」(日本学術振興会)事業もあるが、これも十年でほぼ倍増の急成長で、見方によってはこんな幸せな継続事業は他にあるのかと思う。税金の配分は基本的には見える「民意」が決めるべきで、全般的な考慮などよりは、個々の関係者が具体的な声を一斉にあげることが大事で、その可視化された現実の中で初めて世間に通用する視点が鍛えあげられると思う。
「科学技術」と「国家予算」は本来的にも、歴史的にも別物なのだが、拙著「科学と幸福」(岩波現代文庫)で主題にしたように二十世紀後半にこの二つは急接近し、冷戦崩壊後のSSC(米国の素粒子加速器)の建設中止が象徴するように位相の転換はあったが、新世紀に入って先進国は一斉に産業・雇用構造の変化の担い手としての科学技術振興に向かい、それが追い風となって、じり貧のはずの日本の国家予算の中でも科学技術国家予算は例外的に優遇されてきたのである。
科学技術関連では「事業仕分け」がすでに数年前に始まっていたのである。内閣府の総合科学技術会議が省庁から提出される関係の事業をSABCとランク付けし財務省での予算査定の参考にするしくみである。「大蔵」と「党政調」の見えない過程を可視化したわけである。科学技術基本計画で予算を増やす見返りに透明化を実行するというのが大きな流れであった。総合科学技術会議のもとに幾つかの部会ができて「仕分け」作業をやったわけだが、国会議員は入ってない。大半の国民には関心のないこの「事業仕分け」がちょっと話題になったことがあった。小柴さんがノーベル賞を受賞した2002年のランク付けで彼の研究を発展さす研究関連の予算がB(?)に仕分けされ、次年度送りになる可能性が生じた。ところが、発表まじかでテレビに出たり、首相に挨拶にいったりしていた小柴さんがこの「仕分け」に文句をつけ、ひっくり返ったという「事件」である。どうも消息筋によると他の準備状況とに関連で「翌年でもOK」ということであったらしいが。
民主党はこの専門家が奥ゆかしくやっていたプロセスの政治的利用を図ったわけである。「天下り」の新基準登場も選挙向けである。地方自治体で一部行われ出していたやり方のようだが、日本の様な規模の大きな国家予算でそんなことをやっているのかどうか知りたいものである。もちろん、これは財務省査定の参考という建前だが、削るに苦労している財務省が知恵をつけたというのだから尊重されるだろう。こうなると、国会論議とは何なのかと空しくなる。
国民の投票行動に直結しない科学技術の研究予算でも国会議員に支持者をふやしていくなどいう行動は先進国でも一般的である。アメリカ物理学会は学会の経費でワシントンDCにオフイスを構え、人もおいて日常的に国会議員へのロビー活動をしているようだ。ここ10年程の間に始まったのであるが、他の分野でもやっているのかもしれない。近い分野の相互評価は関連専門家と健全な常識のある部外者で出来るが、SSC中止の決断は、健康保険と素粒子物理の比較のようなことは、政治的決定しかなしえないわけである。
日本の学術界では政治の世界から離れる方策が永年試みられてきた。当初は学術会議が大綱をまとめる能力を持っていたが、それは戦後の経済的な疲弊の中でオールジャパンでものを考える時代であり、群雄割拠の余裕が出来てガバナンスを失った。次の時代は省庁の審議会に有識者を集め、政治家に口出しさせないしきたりをつくった。こうなると常勤である官僚依存が強まることは自然である。総合科学技術会議ができた後は元学長や学者経験者が内閣府にオフィスを構えて行政に関与する常勤の会議議員のポストもできたが、数も少なく司令塔役目も十分かどうか。21世紀にはいって産業界が従来の通産行政だけでなく、科学技術政策に発言力するようになり産官学という標語が普及したが、政党と国会議員はおいてきぼりだったような気がする。大きなプロジェクトには議員連盟をつくって応援団をやって貰う手法が流行ったがこれも政治家主導ではなかったと思う。
あるポストドックが「社会科の勉強がたりなかった」といっていたが、まったくその通りだと思う。科学者全体も国家予算逼迫の中で科学技術予算が優遇されていたことを認識していない。教育費にカウントされる国立大学の運営交付金が急速に貧困化する中なので、何か奇妙な不安定状態にあったことは事実であるが。
1831年頃、ファラデイーが時の首相グラッドストーンに電気の実験を見せた時に、これは何の役に立つ?」と聞かれ、「閣下、将来これに課税できるようになりますよ」と言ったという。まさに国家は税金をめぐって動いている。したがって国家の予算で科学技術を運営するとなると、この仕組みでの関係者の「民意」が見えてなければならない。近年までの「政治との関係を見えないものにしておく配慮」が今後どうなるのか転換点だと思う。従来のしきたりにとらわれずに、当事者が声を上げることなしに民主主義は進まないであろう。と同時に科学者の立ち位置も一層厳しく社会の目にさらすことにもなることを覚悟せねばならない。そのさい、我々は「安全(医療、環境)」と「産業」以外に、人材育成の「教育」という税金の使い道に科学技術は絡んでいるのだともっと認識すべきであろう。
(文科省は今度の「仕分け」に意見を募集しているという、関係者は行動すべきであろう)