佐藤文隆名誉会長訃報の詳細について
佐藤文隆氏のあまりに突然の訃報に接し、多くの方々からその経緯についてのお問い合わせをいただきました。驚きと深い悲しみの中にあるお気持ちは、私たちも同じ思いでおります。少しでも皆さまと思いを共有しながら、できる限り正確にお伝えすることが大切だと考えました。
そこで、あいんしゅたいんの会員である艸場よしみ氏にまとめていただいた経緯報告を以下に掲載いたします。
艸場氏は佐藤氏のご著書に携わり、直前まで執筆にも関わっておられました。また、佐藤氏のご病状を直接ご存じで、ご家族とも連絡を取っておられた方です。
ここにご紹介する経緯は、そうした立場からまとめられたものです。皆さまと共に佐藤氏への思いを分かち合う一助となれば幸いです。
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佐藤文隆先生 ご逝去に至るまで
佐藤文隆先生は40代の後半に「発作性夜間血色素尿症」を発症されました。
京大病院にかかり、当時医師から余命6か月の宣告を受けましたが、その後長く生きて来られました。
主治医の勧めで2020年ごろから治験に参加されて、さらに2023年(?)ごろから別の新しい治験に参加されました。これが功を奏したようで、昨年はじめから体調がとてもよくなられ、執筆活動と講演を旺盛にこなしてこられました。
2024年には『量子力学100年』で毎日出版文化賞を受賞され、書きたいと前から言っておられたオッペンハイマーも、『オッペンハイマーの遺産』(青土社)としてそのあと上梓されました。量子力学歴史やオッペンハイマー歴史を課題とする書籍のコレクションは、国内で有数と自負されていました。
また数年前から生まれ故郷の山形県白鷹の町立図書館に蔵書の寄贈を続けてきた関係で、故郷との交通が始まり、白鷹町に佐藤文隆記念宇宙探検隊が創設されて子供達が楽しく学ぶ場ができました。これらの貢献により白鷹町から名誉町民賞を受けられて、6月に授賞式と講演に招かれ、故郷に寄与できたことをとても喜んでおられました。
このように体調も良くお元気でしたが、そのあと再び貧血気味になられました。それでも、けいはんなや池袋ジュンク堂などでの講演をされて、11月には九州大学での講演も予定されていました。
8月に入って、貧血の原因が「多発性骨髄腫」と判明し、経口薬で治療することになって、すぐに自宅での治療が始まりました。
服薬開始から2週間後の血液検査では、主治医より「計画通りにうまく行っている」という説明がありましたが、服薬が3週間目に入ったあたりから体調が崩れました。しかし佐藤先生は治療の副作用が出始めたと考えて、乗り切るつもりでおられました。
基礎物理学研究所での量子力学の講演(11日)はそのさなかのことで、このときは手振り身振りを交えて、人が止めるまで1時間も話されました。
しかし講演翌日の12日に体調が次第に悪化して、翌土曜日の夜に京大病院に搬送されました。
医師の説明によると、免疫が落ちていたために細菌性肺炎にかかっておられました。手をつくした治療がなされましたが、明けて14日の日曜日、午前0時56分に息を引き取られました。
2025年9月17日 艸場よしみ
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