2024年10月10日

学術会議が我が国の男女共同参画の先陣を切った!(ブログ その152)

学術会議会員に初の女性が誕生したのは第12期(1981年1月~1984年1月)である。
当時は立候補制で有権者の選挙で選ばれた[1]。「学者の国会」とよばれる学術会議は1949年に創立(総理府に所属)、それから32年間、女性が立候補したのはこれが初めてだった。

この時の様子を猿橋勝子先生は、「女性として科学者として(1981年7月 新日本出版社)」に書いておられる。
女性が立候補したことはそれまでなかったので、「学術会議に立ち寄った時、係官が事務上の手続きを詳しく説明してくれ『お帰りになりましたら、候補者の先生によくお伝えください』と言われた」そうだ。[KT1] 
選挙運動とは、決められた枚数(各部の有権者の20%)の検印付きはがきを直送することだった。誰に出すか、大変な作業だったというが、12年会員だった三宅泰雄先生がはがきに丁寧に添書されたらしい。学会などの行事の際に、女性研究者の集まりが開かれ猿橋先生を励まし応援した。

京都に来られた際には京都女性研究者の会(当時は婦人科学者の会)でも議論の機会を持ったものだ。まあ、これを選挙運動というのかも知れない。
しかし、それに先立つ1975年には「婦人研究者の地位向上シンポジウム」が全国規模で開催され、その時、地位向上の先頭に立っておられた猿橋先生の努力は周知のことだった。ちなみに19775年は「国際婦人の10年」が始まった年でもあった。

男女共同参画への取り組みが、極端に少ない比率の女性科学者、しかも自然科学系の分野から始まったことは、まさに、猿橋氏が、「科学者の社会的責任」の自覚が高く、核廃絶を願って世界の科学者と交流し、1958年「婦人科学者の会」を設立され、湯川秀樹博士や朝永振一郎博士などの著名な科学者とネットワークを組みながら立ち上げた実績の上に立った立候補だった。

この選挙に先立って、すでに、学術会議では、1977年総会で「婦人研究者の地位改善について」の要望を政府に提出している。
しかし、この要望は、当時常置委員会を設ける要望もあったが、「学術会内部にも本問題の専門家は少ないこと」もあり、実現せず、単に要望で終わってしまった。こうした事情が第12期で女性会員を送りたいというのが世論となっていたのである。

12期女性会員が参加したことで、「科学者の地位委員会」のもとに、正式に「婦人研究者の地位分科会」【委員長塩田庄兵衛 猿橋勝子幹事】が発足した。古在由秀先生等男性会員も自ら申し出て委員に加わったと聞いている。
予算も貧弱な学術会議だったが、古在先生提案で科学研究費(広領域A 1983-85年度)申請に取り組み、それが採択された。それまで、私は自分の専門以外の分野から科研費申請したことがなかったので、こんな分野横断した課題で科研費申請できることにびっくりした。若い私たち(??まだ京大の助手だった私と大学院生だった頼もしい女性たち??)と学術会員のベテランの先生方との共同作業がこうして始まったのである。

当時は、学会名簿もあり、分野横断のネットワークを持つ女性研究者の強みで、各学会の仲間に協力願い、サンプル調査作業をお願いした。名簿から性別を名前で見分けるという作業が必要だった!この全分野にわたって女性研究者の実態を、アンケート調査(当時は郵便)では、勿論コントロールとして男性研究者をも視野に入れながら、ぎっしり書き込まれた4ページの詳細なアンケート用紙を郵便配布した。
今なら「2分以内で終わるアンケートを創れ」というのが常識だが、当時、よくこんな詳細な書き込みを要求するアンケートを創ったものだ。そして、女性2000名中712名(有効回答率35.6%)、男性1100人中447人(有効回答率44.7%)を得た。
男性の方の回答率が多かった理由の1つは女性と思った名前が男性だった例がかなりあった事もあるが、研究者の実態調査など皆無だった当時、調査に寄せられる期待が高かったのだと思われる。その証拠に、回答には、詳細な書き込みがぎっしりあり、種々の問題点が丁寧に書いてあった。この調査には業績もしっかり書きこむようになっていた(この点については業績評価の参考になる様々な分析がなされていて、これがのちに、評価されることになるのだが、ここでは省略する)。

そして、3年間の調査研究を経て、1983年、学術会議シンポジウム「婦人研究者 現状と展望」で結果を発表したのである。下の画像は、この時マスコミにでた漫画である。

当時、学術会議でも「女性の地位が低いのは、業績が低いからでは?」と疑問を持つ会員も多かった。この調査研究によるデータで「同じ業績でも(女性の)方が地位が低い」ことを証明したのである。

1985年、「要望」が学術会議で満場一致で可決された背後には、同じ業績でも女性は地位が低いことを示したことを反映していた。
こうして学術会議が今でいう「男女共同参画」の明確なオピニオンリーダーとしての役割を果たしたのである。そして1985年の雇用機会均等法と共に、男女共同参画のリーダーとなり、その後、国大協の声明、学術会議16期の原ひろ子ら学術会議女性会員グループの活動、2002年男女共同参画学協会連絡会の発足、内閣府対策担当部局の成立など、長い歴史へとつながってきたのである。

今回昔の資料を引っ張り出してみると、実際フォローする取り組みも行われ、1992年の「女性研究者の地位向上に関する懇談会」には、内閣府総理大臣官房の参事官も交えて第1部から第7部迄、全分野の意見招集と共に熱い議論をした記録(31ページガリ版刷り)も見つかった。残念ながらこうした記録は学術会議のHPにもなく、記録がうずもれるのはもったいないなあ、と思っている。
こうした貴重な記録は、学術会議のリーダーシップの様子をよく反映していると同時に、「エビデンスに基づいた提言」の重要性を指し示す重要な教訓を秘めている。

尤も、記録に残っている資料としては、第16期からの動きが、人文社会学ジェンダーからの蓄積がある。2002年以後STEAM関係は男女共同参画学協会連絡会のHPにある(表)。 
しかし、それ以前に学術会議が男女共同参画への先鞭をつけたこと、その時に「頑固頭ではわからずやの男」というのではなく、論理を尽くすこと、エビデンスベースで説得する事ができ学術会議会員の固定概念を打ち破れば、科学者なるもの認めるというフェアな様子を目の当たりにする。
こうした取り組みの意味を、今、かみしめるべきだと思っている。こんな話をしたら、若い方々が熱意を示した下さり、様々な教訓を含んだその歴史の詳細は、「知らなかった、こうした歴史を知りたい」という若い女性研究者からの声が上がった。

学術会議がこのように男女共同参画の先導者だった歴史を知る人がほぼいなくなった今、現存する資料を整理し教訓を引き出すためにも、アーカイブすることは、学術会議の存在意義と今後の体質改善を見据える上で重要だと痛感した。そして、この歴史と今後の男女共同参画、学術会議への期待を持つ女性研究者を中心に相談した結果急遽科研費挑戦の申請書を作成することにした。
仲間との共同作業で、全貌がアーカイブできると思って楽しみにしている。(採択されればいいのだが・・・)。

ただ、1つだけ、ここで言っておきたいことがある。当時この「婦人研究者の地位委員会」に自ら申し出て参加された学術会議員の先生方から学んだことが多くある。

参加したある院生の感想

自分の研究室にいたらおそらく出会うことがなかったような様々な分野の方々と長期間の仕事に取り組む機会に恵まれたことは、多くの収穫をもたらした。同じ問題を他の専門家が取り上げるときの視点の新鮮さ、大規模なプロジェクト研究が組織されていく様子、第1線の先生方と院生が、研究課題の前では全く対等平等に議論するという運営等々、自分の専門分野でこういう研究組織があればどんなに学問は進歩するだろうか。

と当時の若手大学院生は振り返って感想を述べている。会員と会員外の交流は盛んで、必要に応じてこうした委員会で若手の委員も加えながら議論を進めていたのだ。これは、会員外の研究者や若手にとっても、重要な異分野交流の場を提供していたことを痛感する。
例を挙げると、故北川隆吉先生は、「事実に基づかない理論は科学ではない」と言っておられた。その事実をつかむ方法の一つとして、広い意味の社会調査を位置付けておられたのである。先生は「調査を始めるとき、最も大切なのは、調査者と被調査者との関係がラ・ポール状態にあることです」という前置きの後、調査票の項目設問などの技術面の厳しいご指導をいただいた。
ラ・ポールとはフランス語で「融和関係」という意味で、人間的な温かみと科学的な考察と、客観性を兼ね備えたベテランの先生の言葉は、今でも忘れられない。

また、エビデンスに基づかない結論は科学ではない、という全体を貫いた精神に従って異分野交流の中で行われた調査研究の基盤を作って下さったのは、故古在由秀先生である。忙しい中、よく若い我々に付き合って下さり、内容を正確に把握しておられた。この結論のエッセンスを、AWIS(アメリカ女性科学者の会)にも投稿する提案をされたのも古在先生だった。

AWAS記事

この記事の中にも別の漫画がでていた。古在先生は、京都への出張も、「私は、学士院会員なので、国鉄はフリー、旅費はいりません」と言われた。この「婦人研究者の地位委員会」も、若い我々は学術会議の会員ではないが、委員会のメンバーにしていただいて作業が進んだわけで、こういう広がりを持つ異分野と若手をむすぶ配慮も学術会議のおかげだった。いつも予算がひっ迫していたので、できるだけ費用節約を心掛けたが、科研費のおかげでしっかりした調査研究もできた。こうして、(故)塩田委員長、〈故〉猿橋幹事をはじめ、全員がまさに協働して3年間の成果報告を出した。

学術会議は、科学技術の発展のための環境改善を要望したり、将来計画を立てて政府に提言したり、国際交流を通じて世界の科学者とコミュニケーションをとったり、科学者の社会的責任をどう果たせるのか、市民の声をどう反映するか、未来のために子供たちの教育の在り方について、広い視野で、工夫したり、方向性を議論できる、唯一の分野を横断した場である。
たしかに、私も「学術会議よ。もっとしっかりしてよ」と言いたくなるところもある。昔の選挙制度は、多くの科学者の声を反映する代表を出せる機会でもあったのだ。
今一度、選挙で選べる会員の枠の比率も設けて風通しを良くしたらどうだろうか。この機会をチャンスととらえ学術会議の改革案を各学会での議論も含めて作り上げてはどうだろうか。さらに言えば、私は、定年後もますます研究に意欲をもって頑張っている科学者をたくさん知っている。長寿命社会を迎えて、みんなまだまだ働きたい人も多い。時代はどんどん変化する、70歳定年などは昔の基準ではないか、せっかくの蓄積した年寄りの知恵も生かす方法も考えてはどうか。まあ、ぼけてきた人をいかに見分けるかも考えておかないといけないことも確かだけれど。私も「もしほんとに変なこと言ったり、頑固になったら、遠慮なくいってね」と周りに頼んでいる。
悪気がなくても自分で気が付かないのが年齢を重ねた時の問題だ。まあ、ちょっと言いすぎたが、現在の状況を見据えて、いろいろ改革してほしいことはある。

しかし、それと今回の任命拒否とは話が違う、科学者はたとえ頑固に見えても、わからずやに見えても、真実を大切にするという点だけは誇っていいはずだ。
改革することは大賛成だがそれは任命拒否とは別の問題ではないか。今一度、菅首相は、「ちょっと、お灸をすえたかっただけ。学術会議が改革に積極的な姿勢を示していただいたのだから、私の目的は達せられたわけで、任命拒否は取り下げる」といえば、かっこいいなあ、そうすれば、きっと、人気が上がると思うのだがなあ。

早くコロナ騒ぎと学術会議任命拒否騒ぎがいい方向で終わってほしいと願うばかりである。


[1]第1部から3部迄が人文社会科学、4部理学、5部工学、6部農学、そして7部が医学であった。4部の当時の有権者総数1650は約16500でうち女性は600ぐらい(4%弱[1])。ただ当時男女別は書いてなかったので名前から1人1人判断されたらしい。


[KT1]ここに「女性である猿橋先生がまさか候補者本人であるとは思わなかったのだろう」とか、ちょっと説明を加えてはどうでしょう。