2024年04月28日

女仲間で語るLLM(大規模言語モデル)(ブログ その186)

on-line cafe “湯川博士の贈り物 5”が、松田さんのお話しから始まった。

湯川博士は、「人間だけが言葉を話す」という特徴を持っていることの不思議さ、小さな子供がどうして言葉を話せるようになるかをつぶさに観察し語っておられる。これに関連して、“言葉を獲得した人類の現在と未来”というテーマでのシリーズである。

松田さんは、AIの働きが人間の知能を超える(シンギュラリティ)については随分前から勉強会を立ち上げ、「シンギュラリティサロン」を開設して取り組んでおられる。私には、そんな松田さんといつも意見を異にして議論しつつ教えてもらう仲でもある。

そこでそれに先立っていろいろ議論すべきと考えて、8月18日、文学研究者の木下由紀子さんの問題提起と解説で、現在のAIの言語形成の評価と課題を、文学の立場から議論していただく機会を持った。

一番の問題は、論理では結構なところまで行けるLLM(Large Language Models大規模言語モデル)であるが、機械とは一線を画するように思われる、人間の最も素晴らしい感性である「共感」を呼び起こす要因とメカニズムはなんだろう、人間が持つエゴ/主体と共感とはどういう関係性にあるのか、というようなもやもやした疑問から議論から始まった。AIとの対比からヒトが言葉(や画像や音)を通じて共感することの意味を探りたかったのである。

LLM(大規模言語モデル)は、「反応できる」、でも、人間の場合は同情したり共感したり、意気投合したりする。自分自身は経験していないでも、感情を共有できる。
相手がリンゴを食べて「甘ずっぱい」といったら、自分も口の中が甘酸っぱくなる。たとえリンゴを食べたことがなくても、である。

テレビでは、頻繫にレストランで食べる画面が出る。私のようにつましい生活をしている身では一生食べることもない美味な料理。なんでみんなが見るのかな?
落語で、おかずがないので、梅を見て酸っぱい味と一緒にご飯を食べる話があったが、あれは、どう考えたらいいのか。相手が悲しんだり、痛いといって苦しんでいると、それが、特に我が子の場合、自分も痛みを共有する。こういうのは、同情以上の感情的想起ではないか。つまり自己が体験しなくても人間は相手の気持ちに寄り添えるところがある。
これって人間だけができることか、機械はそういう感情とか感触を言葉に表すことはできるかもしれないが???機械が発したその言葉をどう受け止めるのか。

そんな話から始まって、言葉や音楽が引き起こす感情移入の話になった。
その中で、(若干の脱線はあるが)例として、ショスタコーヴィチの交響曲第7番『レニングラード』を聴くこととなった。木下さんによると、この曲は、政治(権力)からの、芸術家の独立性の問題(それがないと本来的な芸術活動も成果も生まれにくい)を考えさせる、単にレニングラードを侵攻したナチ軍を追い返したという外戦の高まりだけでなくスターリン体制への批判、市民の悲しみの底流が感じられるのである(たとえば、千葉フィルハーモニー管弦楽団を参照。詳しい解説がある。7)。

音楽や文学の解釈と共感の意味とはなにか。上手にまねても受け手の側には本物とは異なる感情の想起がそこには起きる。芸術作品の完全な(少なくともそう見える)レプリカが本物にどうしても及ばないのはなぜか。これはオリジナルの創造者とレプリカの作り手の(つまりは異なる「主体」の)意識の違い、あるいはある問題意識の有無によるところが大きいのではないか、という。

「でも、その違いを私たちが感じるのはなぜ?本物でないという「思い込み」以上のものがあるのですが、それはもっと具体的には、的確にはなんなんだろう。この結論がまだペンディングです。」と木下さんは言う。このあたりの微妙な違いを、いつの日にかコンピュータも感知するのだろうか。

それから(今回の松田氏のレクチャーの参加者の1人、鈴木和代さんからも質問が出ていたが)「言葉がわかる」とはどういうことかの話になった。
木下さんは、大学で英語を教えているが、こんな経験があるという。Aさんは、クラスで最もよくできる学生で、もちろん受験もおそらく優秀な成績で突破した学力の持ち主である。大学でも、穴埋め問題や、選択問題では、いつも満点だった。ところが、学期の最後に、「授業の教材を用いてどこか引用しつつ自分の感想や経験を盛り込んだエッセイを書く」という課題を与えた。そうしたら、穴埋め問題や選択問題は満点なのに、そこは白紙だった。こういう学生が数%はいるという。
自分の考え、自分の感想を書くことができないのだ。どうも腑に落ちない、という。大学受験も突破した優秀な学生なのに何だろう、という

ChatGPTにどこか似ているような・・・。このような例は大学にかかわらず小中高の教育現場でもあって、学習障害に近い場合もあるだろうし、心理的なトラウマなどに起因する場合もあるので、一般化しにくいうえ、学生さんを例に挙げるとプライバシーに触れる場合もあるのでこの例は少し脇においても、ここで問題にしたいのはやはり「主体」の問題である。主体的なかかわりや反応(知性+意志/意思+感情/感性+身体的知的感情的経験+共感力としての想像力)を必要としない知的活動において、Generative AIはおそらく有用だし人間を超えるだろう。

ただ、アクティブな読書行為(作家の声と意識を聞く、辿る、読者が作家と「対話」する読書行為)を必要とするような作品の翻訳をAIはおそらくできないのではないか。実にこれは読み手が知的経験的に未熟であったりする場合に人間の読者/翻訳者にもおきる。木下さんはいう、「このことは、Woolf(木下さんのご専門はVirginia Woolfである)のエッセイについての勉強会でしばし話題にするところです」ということだ。

「共感については、ミラーニューロンの研究がありますね。これはまだよく分かっていないみたいで、批判もあるようですが。音楽と人工知能について言うと、ピアノの自動演奏は音符通りに弾く技巧は確かだけど、味気ないです。ピアノを弾くときは想像力と呼吸が大事。どんな楽器演奏でも息はとても大事です」とは艸場さんの意見。「人工知能が作曲したらどんな音楽を作るんでしょうね。モーツアルトふうに、とかベートーベンっぽく、なんて入れて作らせるのでしょうか。 ベートーベンは悩んで悩んで作曲して、できた楽譜は直しに直しをして真っ黒だけど、モーツアルトはほとんど直しがなくてきれいなのは有名な話です。作曲という仕事の偉大さ(人間への影響)については、思いを馳せることがあります」と続けた。

私こと坂東は「ベートーベンの未完成交響曲10番を、人工知能でつくらせた報告もありますよ」とシンギュラリティ勉強会での学びの披露をする。エルビス・プレスリーの人口知能がつくらせた「My Way」も、シンギュラリティ勉強会で聴いた。その時、やかましい歌が嫌いだったが、「本物はどうかな」と同じ曲を聴いた。哀愁のある魅力的な声にすっかり魅せられ、その素晴らしい歌唱力にすっかりファンになって、結構、何度もその本物の歌を聴いている。

松田さんの先見の明で、以前から注目しておられただけあって、レヴューは素晴らしかったし、子供も参加していることを考慮して、難しい言葉が出てくると必ず易しく説明を付け加えられる配慮に、へえー松田さんもこういうことができるんだ、と敬服した。ただこれから先、人工知能の将来の話になると???またまた意見が違うなあ、と反論したくなることも、しばしばであった。私の個人的な将来予想とはだいぶ違うなあ・・・などと、思うこの頃である。湯川の贈り物ではどういう展開になるか、楽しみでもある。

(注:このブログは、松田さんのお話の前に予習した話に加えて、お話の後の感想も付け加わっています。また内容は、木下さん、艸場さん、そして鈴木さんたちとの合作です。やっぱり女性の集まりは面白いです! 坂東)