2024年10月10日

 

市民も科学者も一緒にサイエンスを! 市民と科学者で作った「放射線 必須データ32」

「みんなが、自ら考える為の資料、いったん、自分の希望や方向を捨てて、客観的に理解し、その上で、方針をたてるという姿勢を、貫いていくことの大切さが、今求められているのだ、ということを再認識いたしました。その方針で、データを整理するという方針を貫きたいと思いました。」

これはある日のメールのやり取りで、市民のおひとりである土田さんが書いてくださったメールです。彼女は「放射線 必須データ35」にファシリテータとして編集者の艸場さんとともに、疑問に思うこと、わからないことなどを市民の目から見つめて意見をぶっつける役目を果たしてくださった。最初のうちは質問が多かったが、だんだん中身を理解していくうちに、次第に本格的な議論も出てくるようになりました。中でも一番私たちの弱点であった疫学の部分について、新しく田中司朗先生が加わってくださり執筆にとりかかったころの議論を紹介しましょう。

● ファシリテータの質問

「疫学」とは、どこまでを指すのかをお伺いしたかったのですが、私のイメージとしては、「行政の責任は、社会の利益を考えたときに合理的な判断を行うことであり、科学的真実が分からなくても行動すべき状況があり得る。」という部分は、疫学の範囲ではなく、行政の範囲のように思い、削除してみました。田中先生にお伺いしたいのは、疫学とは、「対策を提案することまでを含む。」のですか?価値観(みたいなもの)を削ぎつつ、疫学の位置づけを客観的に語ることは、「可能」あるいは「是」でしょうか?

● 著者の答え

社会における疫学の位置付けを語る, という意味ならば不可能です. 例えば, 「コレラの感染源が井戸水という傾向が見られるが統計的に有意でない」ときに,科学的に正しいのは何も行動しないことですが, 社会的に正しいのはとりあえず井戸水を使用しないことですよね.

● ファシリテータの質問

私のイメージとしては、「コレラの感染源が井戸水という傾向が見られるが統 計的に有意でない」 というところまでが、疫学で、「この井戸水を使用しない。」と決めるのは、行政の範囲のように思っていました。疫学とは、「統計的に有意でないが、コレラの感染源が井戸水という傾向が見られるので、井戸水を使用しないことを提案する。」あるいは、「コレラの感染源が井戸水という傾向が見られるが 統計的に有意でないので、井戸水を使い続けるべきだと提案する。」ことなのですか?私は、この場合に「何もしないのが科学的に正しい。」とは、思いません。科学的に言えることは、「コレラの感染源が井戸水という傾向が見られるが 統計的に有意でない」ということまでで、その先、井戸水を使用するかどうかは、住民や行政が決めることだと思うのですが。疫学の捉え方を私が誤っているようでしたら、正しい範囲が分かるように書いていただきますよう、お願い致します。

こんな議論が飛び交った5年間でした。メールの数は3000をこえ、メール上ン議論で済まない時はファシリテーターが直接研究所に出かけたり、あるいはスカイプで直接議論することもたびたびで、けっこう厳しい意見に著者が何度もたじたじとなったものでした。
私の場合も、ショウジョウバエの実験を紹介するのに、そこに出てくる劣性致死とはどういうものか説明がややこしいので、ちょっとごまかして論理がつながらないけどまあいいか、と思っていたら、案の定、「この文章だけではつながりません」と指摘され、やっぱりごまかしてはダメだと書き直したり、と大変でした。
そういう議論がもとになって6年もかけて完成したのが、「データ32」です。5年も経つうちに、市民のほうも飛躍的にレベルが上がってしまい、ちょっと難しい本になったかもしれませんが、市民と科学者がこんなに綿密に議論して対等平等にやりあった経験は、世界でもちょっとないのではと誇りに思っています。

これはある時の逸話ですが、放射線生物学のある偉い先生の研究所でファシリテーターや編集者を交えて忌憚のない意見交換をしていたところ、それを見ていた秘書の方が、びっくりされたことがありました。秘書の方にとっては、市民と科学者が同じテーマを巡って、対等に意見交換をする場面を見ることは珍しかったのでしょう。

あいんしゅたいんの議論はいつもこんな調子で、市民も科学者も目の前にあるテーマを理解したいという共通の思いのもと、誰もが疑問に思うことをはっきりと口にします。市民であっても、若い人であっても、おかしいと思ったら、相手が偉い先生であろうが、年長者であろうが、正直にぶつけるのです。「正しいことを知るために議論する」ということを一番の目的として皆で共有する時には、大切なのは意見や疑問の内容そのものです。それを誰が発言したかという、発言者のいわゆる「社会的地位」は関係ないのです。この気風は、実は湯川秀樹先生をはじめとする素粒子論グループの研究室では常に支配していたもので、相手が湯川先生であろうが間違っていると思えば若手も意見を当たり前のようにしていました。真実を追求するのに、階層も性別も人種の違いもありませんでした。そういう中から、新しい知見が得られ、真実が明らかにされていくのです。「進取の気風」は、真実を求めるためにはみんな平等だという考えに基づいているのでした。新しく知の地平を切り開く科学者の集団には、どこでもこの気風が漂っているのではと思います。
しかし、これまでは、それはあくまで専門科学者集団のなかでの話でした。ところが、今回は、分野を超えた問題でもあり、それが社会に直接影響を与える課題についての議論です。私たちは、物理学・生物学・医学と、異分野の科学者が集まって議論を始めてみると、専門が異なると、考え方も判断の仕方も違うことを発見しました。その壁は市民と科学者の壁よりひょっとして厚いかもしれません。議論していると市民のほうが素直に分かり合える場面も何度も経験しました。いわば、市民は専門の異なる科学者の間をつなぐ素晴らしいネットワークを作る主人公なのだということを改めて痛感したのです。そして市民も科学者もお互いにたくさんのことを学ぶことができたのです。

こうした積み重ねの上にできたこの本はちょっとそこらの専門家の書いたものとは趣が違います。そんな関係をもっとたくさんの方々と共有できたら、みんながサイエンスを楽しめるし、生活の役に立てるところまで持っていけると思います。


「放射線 必須データ32」へ至る取り組み

● 2011年の勉強会や市民講座の様子

3.11の年に入学した学生たちとの勉強会が科学者も巻き込んでひろがっていきました。また、この年にはJSTの支援により、市民講座をはじめることができました。やがて、異分野の科学者が一堂に集まった研究会も開かれました。

● やがて活動は福島へ

2011年から始まった活動はやがて発展し、福島での活動にもつながりました。福島の高校生の取り組みを聞かせてもらうこともありました。

● 海外の研究者たちとの交流

市民と語らい、福島の現状を知った上で、ヨーロッパの放射線影響の研究に取り組むMELODI国際会議にも出席しました。2015年の秋にはUNSCEARのワイズ博士らが来日し、交流しました。